なぜ「みんなそうしている」は思考を止めるのか|常識と判断停止の構造
・「みんなそうしているから」
・「普通はそうだよ」
・「前からこうだった」
そう言われた瞬間、なぜか反論する気が失せる。納得したわけでもないのに、考えるのをやめてしまう。
本当は少し違和感があったはずだ。
・「それって本当に正しいのか?」
・「自分には合っていない気がする」
でも、その問いは口に出る前に消えていく。“みんな”という言葉には、不思議な圧がある。否定すれば空気を壊す気がするし、疑えば自分がズレているようにも感じる。こうして私たちは、疑問を持つ前に思考を止める。
これは性格の問題でも、勇気の問題でもない。むしろ、多くの人が同じ場所で立ち止まるように設計されている。その違和感の正体を、ここから言語化していく。
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空気を読むのは大人だから
一般的には、こう説明されることが多い。「みんなそうしている」に従うのは、協調性があるから。集団で生きる以上、空気を読むことは必要で、疑いすぎる人は“面倒な人”になってしまう、と。
確かに、社会は一人では成り立たない。全員が勝手な判断をすれば、混乱が起きる。だから“多数派に合わせる”ことは、合理的な行動だとされる。
また、日本では特に、和を乱さない、前例を尊重する、場の空気を読むことが美徳として語られてきた。つまり、「みんなそうしている」は社会を円滑に回すための“知恵”であり、思考を止めるどころか、成熟した判断だと説明される。
だが、この説明ではどうしても説明できない現象が残る。
なぜ違和感まで消えてしまうのか
もし「みんなそうしている」が、単なる合理的判断なら、心の中の違和感までは消えないはずだ。従うとしても、「自分は納得していない」と自覚できるはずだから。
だが現実は違う。多くの場合、違和感そのものが「感じてはいけないもの」になる。疑問を持った瞬間に、「自分が間違っているのかもしれない」、「考えすぎなのかもしれない」と、自分の感覚を疑い始める。
ここにズレがある。これは協調性の話ではない。思考の放棄が、自動的に起きている状態だ。
しかもこの現象は、特定の場面だけで起きるわけではない。仕事、教育、消費、価値観、人生設計。あらゆる場所で「みんなそうしている」は使われ、そのたびに個人の判断力は削られていく。
もしこれが単なる文化や性格の問題なら、ここまで一貫して、同じ反応が量産されるだろうか。
ここで初めて見えてくる。「みんなそうしている」は、便利な言葉なのではない。思考を止めるために機能する“構造的な装置”なのだ。
「構造」で見ると、思考停止は自然に起きている
ここで視点を変えてみよう。「みんなそうしている」で思考が止まるのは、あなたが弱いからでも、考える力がないからでもない。それは構造として、そうなるように配置されている。
人は本来、判断にエネルギーを使う。正しいかどうかを考え、比較し、選び、責任を引き受ける。これは想像以上に負荷が高い。
そこに現れるのが、「みんなそうしている」という言葉だ。この一言は、判断を“外部化”する。自分で考える必要も、責任を背負う必要もなくなる。
しかもこの言葉は、「多数派」、「前例」、「空気」、「普通」と結びつくことで、疑う側にコストを集中させる。疑えば浮く。逆らえば面倒が起きる。間違っていた場合の責任は自分だけが背負う。
こうして、「考えないこと」、「合わせること」が、最も低コストな選択肢になる。
重要なのは、これは誰かが悪意でやっている話ではない点だ。社会が回り続けるために、疑問を減らし、摩擦を減らす仕組みとして自然に定着している。つまり、「みんなそうしている」は嘘でも真実でもなく、思考を止めるための“装置”として機能しているのだ。
「みんな」が真実になるまでの構造
ここで、この現象を一度、構造として分解してみよう。「みんなそうしている」が思考を止めるまでの構造は下記の通りだ。
① 前例・慣習が生まれる
最初は、ある行動や考え方が「たまたま」選ばれる。必ずしも最善でも真実でもない。ただ、都合がよかった、楽だった、強い側に有利だった。
② 繰り返され、多数派になる
同じ選択が繰り返されることで、「よくある」「普通」「当たり前」になる。ここで初めて、“みんな”という言葉が成立する。
③ 正当性が付与される
多数派=安心、前例=正しいという連想が働き、中身ではなく数が正しさを担保し始める。
④ 疑う側にコストが集中する
疑問を持つ人は、説明責任、空気を壊すリスク、孤立を引き受けることになる。一方、従う側は、考えなくていい、責任を分散できる、安全という状態に入る。
⑤ 思考停止が合理的選択になる
結果として、「考えない方が得」、「疑わない方が楽」という学習が無意識に起きる。ここで重要なのは、
嘘か真実かはもはや関係なくなることだ。
⑥ 「みんなそうしている」が最終兵器になる
議論が止まり、理由が省略され、判断が放棄される。この瞬間、「みんなそうしている」は説明ではなく終了宣言になる。
この構造が怖いのは、誰かが嘘をついている必要すらない点だ。全員が「そういうものだと思っている」だけで、思考は静かに封じられていく。
そして、真実は語られなくなる。嘘ですらなく、疑問そのものが存在しなくなる。これが、第2章「嘘と真実」で扱う核心だ。
それは、あなたの判断だっただろうか
ここまで読んで、少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。あなたがこれまで選んできた行動の中に、「みんなそうしているから」という理由で決めたものはなかっただろうか。
進学、就職、働き方、結婚観、商品を買う理由、サービスを選んだ理由、断れなかった頼まれごと。そのとき、あなたは「納得」して選んだのか。それとも、「考えなくて済む」方を選んだのか。
重要なのは、それが正しかったかどうかではない。成功したか、失敗したかでもない。本当に問うべきなのは、「それは自分の思考を通った選択だったのか」という一点だ。
もし今、理由を説明しようとして言葉に詰まるなら、そこにはすでに構造が働いていた可能性がある。「みんな」という言葉に判断を預け、安心と引き換えに、思考を置いてきた場所。
それは責められることではない。誰もが、そうなるように育てられてきた。ただ、気づかないまま続けるか、気づいた上で選び直すか。その分岐点に、あなたはいま立っている。
嘘と真実を分けるのは、知識ではなく視点だ
この違和感を、「なるほど」で終わらせることもできる。けれどそれでは、また次の「みんな」に流されるだけだ。
構造録・第2章「嘘と真実」では、
・なぜ嘘は信じられやすいのか
・なぜ真実は語られにくいのか
・思考停止はどこで起きるのか
それらを、善悪や陰謀論ではなく、構造として一つずつ分解していく。目的は、正解を教えることではない。「疑える視点」を、あなたの中に取り戻すことだ。
常識を疑えと言われずに育った私たちが、それでも思考を取り戻すために、何が必要なのか。もし今日、
「自分の判断で生きたい」と少しでも思ったなら、この章は、その最初の足場になるはずだ。
思考を止める言葉の外側へ。
構造録・第2章で、続きを読んでほしい。
