常識的な人ほど、嘘を疑えなくなる理由|「正しさ」が思考を止める構造
私たちは子どもの頃から、「常識的でいなさい」と教えられてきた。
・空気を読むこと
・周囲と足並みを揃えること
・変なことを言わないこと。
それらは社会で生きるための“正しさ”であり、大人としての成熟の証でもあった。
実際、常識的な人は信頼されやすい。職場でも、家庭でも、「ちゃんとしている人」と評価される。だからこそ、多くの人は無意識に“常識的であろう”と努力してきたはずだ。
けれど、ふとした瞬間に違和感が残る。明らかにおかしな話なのに、誰も疑っていない。
理不尽なルールなのに、「そういうものだ」で片付けられている。そして、自分自身もそれを深く考えず、受け入れてしまっている。
なぜだろう。なぜ「常識的な人」ほど、嘘や歪みを疑えなくなってしまうのか。
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疑えないのは「情報不足」だから?
この問題について、一般的には次のように説明されることが多い。
・騙されるのは知識が足りないから
・嘘を見抜けないのは情報リテラシーが低いから
・ちゃんと調べないから引っかかる
・頭が良ければ、論理的なら防げる
つまり、「疑えないのは個人の能力の問題」だという考え方だ。もっと勉強すればいい。もっと賢くなればいい。感情に流されず、冷静に判断すればいい。
確かに、これは一部では正しい。知識が増えれば見抜ける嘘もあるし、経験があれば回避できる罠もある。
けれど、この説明には決定的に説明できない現象が残る。それは、知識も経験も十分にある“常識的な大人”ほど、嘘を信じてしまう場面があるという事実だ。
なぜ「真面目な人」ほど疑えないのか
現実には、陰謀論にハマるのは必ずしも知識のない人だけではない。怪しい制度や歪んだ仕組みを支えているのも、非常識な人ではなく、むしろ「ちゃんとした大人」「常識的な人」であることが多い。
・会社の理不尽な慣習
・明らかにおかしい業界ルール
・誰かを消耗させる仕組み
それらは、「変な人」ではなく、空気を読める人・波風を立てない人・真面目な人によって維持されている。
ここでズレが生じる。もし「疑えない原因」が能力不足なら、社会経験を積んだ大人ほど、嘘を見抜けるはずだ。けれど実際には逆のことが起きている。
つまり問題は、「知らないから疑えない」のではない。「常識的であろうとするほど、疑えなくなる」構造が存在している。このズレは、個人の性格や知能の話では説明できない。
疑えなくなるのは「思考停止」ではなく「構造適応」
ここで視点を変えてみよう。常識的な人が嘘を疑えなくなるのは、怠けているからでも、考えていないからでもない。
むしろ逆で、社会にうまく適応しようとした結果として起きている。
常識とは、単なる知識の集合ではない。それは「この社会で安全に生きるための振る舞いの型」だ。空気を読む。波風を立てない。前提を共有する。そうすることで、人は排除されず、信頼され、居場所を得てきた。
つまり常識的であるとは、「疑うべきでないものを、あらかじめ決めておくこと」でもある。
ここに構造がある。疑問を持つこと自体が、リスクになる場面が多すぎる社会では、人は無意識に“疑わない能力”を発達させる。疑わないことが評価され、疑わない人ほど「まともな大人」として扱われる。
その結果、嘘は見抜けなくなるのではない。嘘が「疑う対象として認識されなくなる」。
これは個人の問題ではない。疑う力を削ぎ落とすように設計された環境に、人が適応してきた結果なのだ。
嘘が「常識」になるまでの流れ
ここで、嘘が嘘として認識されなくなる構造を、小さな「構造録」として整理してみよう。
【構造①】繰り返される「正しそうな言葉」
最初に提示されるのは、一見すると反論しづらい言葉だ。
・みんなそうしている
・常識的に考えて
・普通はこうだ
・前から決まっている
これらは内容ではなく、前提を固定するための言葉である。この段階では、まだ嘘は露骨ではない。
【構造②】疑問を持つ人が「面倒な人」になる
次に起きるのは、疑問を持つ人へのラベリングだ。
・空気が読めない
・協調性がない
・理屈っぽい
・大人げない
ここで重要なのは、疑問の内容が検証されないこと。代わりに「疑う姿勢」そのものが問題化される。
【構造③】沈黙が「正しさ」に変換される
疑問を口にする人が減ると、場は静かになる。その静けさは、「みんな納得している」、「問題はない」という意味にすり替えられる。実際には、疑う人がいなくなっただけなのに。
【構造④】嘘が「疑わない前提」になる
こうして、本来は検証されるべき前提が、「最初から正しいもの」として固定される。この時点で、それが嘘かどうかは、もはや重要ではない。疑う回路そのものが閉じているからだ。
【構造⑤】常識的な人ほど、深くは考えなくなる
最後に残るのは、真面目で、常識的で、問題を起こさない人たち。彼らは考える力を失ったわけではない。ただ、「考えなくていい場所」を増やしすぎただけだ。そして気づかないうちに、嘘は「疑えない常識」として、日常に溶け込む。
あなたは、いつから疑わなくなったのか
少しだけ、自分のこれまでを振り返ってほしい。
・「それって本当?」と口にしなくなったのは、いつからだろうか
・違和感を覚えたのに、「まあいいか」と流した場面はなかったか
・疑問よりも、場の空気を優先した経験は何度あっただろう
多くの場合、それは怠慢ではない。疑うことで失うものの方が多いと、学習してきただけだ。
学校で。職場で。家庭で。疑問を出した瞬間に、面倒な人扱いされた経験。正しさよりも「合わせること」が評価された記憶。その積み重ねが、「疑わない方が楽だ」という感覚を作る。
もし今、何かにモヤっとしながらも、「常識だから」「みんなそうしているから」と思考を止めているものがあるなら。それは、あなたが騙されやすいからではない。疑わないように、うまく育てられてきただけだ。
では、これからもその前提のまま生きるのか。それとも、一度だけ立ち止まってみるのか。
この問いに、正解はない。だが、問いを持たないままでは、嘘はずっと「疑えない真実」の顔をし続ける。
疑う力を取り戻すための「構造録」へ
構造録・第2章「嘘と真実」は、「何が嘘か」を教える章ではない。
・なぜ嘘が真実の顔をするのか
・なぜ人は疑えなくなるのか
・どの地点で思考が止められるのか
その構造そのものを解体する章だ。
答えを与えられる安心はない。代わりに、もう二度と「疑えなかった自分」を他人のせいにできなくなる。
もしあなたが、正しさよりも静けさを優先してきた感覚にどこか引っかかりを覚えているなら。ここから先は、その違和感を“なかったこと”にしないための場所だ。
👉 構造録 第2章「嘘と真実」を読む
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