自己責任論が強い社会ほど、嘘が残り続ける構造
失敗したとき、うまくいかなかったとき、私たちは驚くほど簡単にこう言われる。
「それは自己責任だよね」と。
一見すると、その言葉は正しく見える。選んだのは自分、決めたのも自分。だから結果を引き受けるのも自分だ──そう言われれば、反論しづらい。
だが、その言葉を聞いた瞬間、あなたは本当に「納得」しただろうか。それとも、どこかで「話が終わらされた」と感じなかっただろうか。
自己責任という言葉は、答えを与えているようで、実は問いを消してしまう。なぜそうなったのか、他に選択肢はなかったのか、本当に避けられなかったのか。
それらを考える前に、議論は静かに終わる。そして、不思議なことに、その社会ほど「おかしな話」が長く、何度も繰り返されていく。
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自己責任が強いほど、社会は健全になる?
一般的には、「自己責任を重視する社会は成熟している」と説明されることが多い。甘えを許さず、依存を減らし、一人ひとりが自立する。だからこそ、努力する人が報われ、社会全体の効率も上がる──そう語られる。
確かに、責任の所在を曖昧にしないこと自体は重要だ。誰かのせいにして逃げ続ける社会が、健全でないのも事実だろう。
だから、問題が起きたときに「本人の選択の結果だ」と整理することは、一種の合理性を持っている。
しかし、この説明には一つの前提がある。それは、「個人は常に十分な情報と選択肢を持っていた」という前提だ。もしそれが崩れたとき、この説明は急に説明にならなくなる。
なぜ自己責任が強い社会ほど、嘘が消えないのか
自己責任論が強い社会では、奇妙な現象が起きる。明らかにおかしい制度、不利な条件、一部だけが得をする仕組みがあっても、それが長く放置されるのだ。
なぜなら、問題が起きた瞬間に原因が「個人」に回収されるからだ。うまくいかなかったのは、努力が足りなかったから。失敗したのは、選び方が悪かったから。騙されたのは、見抜けなかったあなたの責任。
こうして、構造や仕組みそのものは検証される前に免罪される。さらに厄介なのは、この状態では嘘をつく必要すらなくなることだ。
不利な前提が隠されていても、再現性のない成功例だけが語られていても、誰もそれを「嘘だ」と言わない。なぜなら、うまくいかなかった人が声を上げた瞬間、「自己責任」という言葉で沈黙させられるからだ。
結果として残るのは、検証されない物語と、修正されない構造。自己責任が強い社会ほど、嘘は暴かれない。嘘は、「あなたが悪い」という形に変換され、安全に、長く、生き残り続ける。
嘘は「誰かの悪意」ではなく、「構造の副産物」である
ここまでの話を「結局、悪い人が嘘をついているだけでは?」と理解したくなるかもしれない。
だが、それではこの問題の本質を見誤る。自己責任論が強い社会では、嘘は誰かが意図的につかなくても成立する。なぜなら、検証されない前提が自動的に「正しさ」として流通するからだ。
重要なのは、「嘘をついたかどうか」ではない。「疑われる必要がなかった」という点にある。結果が出なかった人は、構造を疑う前に自分を責める。声を上げた人は、努力不足と切り捨てられる。
この循環の中では、間違った前提であっても、検証される機会が訪れない。つまり、嘘が残るのは人々が騙されたからではなく、騙されたかどうかを問う場が消えるからだ。
ここで必要なのは、誰かを告発することでも、善悪を裁くことでもない。視点を「個人の責任」から「構造そのもの」へ移動させること。嘘は、構造の中でもっとも都合よく保存される。
自己責任論が嘘を保存する仕組み
では、自己責任論が強い社会で、嘘が残り続ける構造をシンプルに分解してみよう。構造は、次の流れで成立している。
① 個人に選択を委ねる
まず、「選んだのはあなた」という前提が置かれる。選択肢の質や偏り、情報の不完全さは、ここでは問われない。
② 結果だけが評価される
次に、成功か失敗かという結果のみが可視化される。過程や条件の差は、ノイズとして切り捨てられる。
③ 失敗は個人に回収される
結果が出なければ、原因は即座に「努力不足」「能力不足」「判断ミス」へと回収される。この時点で、
構造そのものは検証対象から外れる。
④ 異議申し立てが封じられる
もし誰かが「そもそも前提がおかしい」と言えば、「言い訳」「他責」「甘え」というラベルが貼られる。異議は、議論ではなく人格評価にすり替えられる。
⑤ 嘘が“検証不要の前提”として固定される
こうして、再現性のない成功談、都合のいいデータ、不利な条件を隠した物語が検証されないまま残り続ける。嘘は、信じられているから残るのではない。疑われない設計だから残る。
この構造の中では、誰も嘘をついていないつもりでも、嘘は静かに増殖する。自己責任論とは、人を追い詰める思想ではない。構造を不可視化する装置だ。そして、構造が見えない限り、嘘は「常識」や「正論」の顔をして居座り続ける。
あなたは、どこで構造を疑うのをやめたのか
ここまで読んで、「自己責任論がおかしいのは分かる。でも自分は関係ない」そう感じているかもしれない。では、少しだけ振り返ってほしい。
うまくいかなかったとき、あなたは何を疑っただろうか。環境だろうか。前提だろうか。それとも、真っ先に自分自身だっただろうか。
・「自分の努力が足りなかった」
・「もっと頑張れたはずだ」
・「成功できないのは能力の問題だ」
そうやって結論を急ぐことで、本来検証すべきだった条件や仕組みを一度も見ないまま通り過ぎてこなかっただろうか。
もし、「これは構造の問題かもしれない」と感じた瞬間があったとしても、それを「言い訳だ」、「他責だ」と自分で封じてはいなかっただろうか。
自己責任論は、誰かに押し付けられるものではない。多くの場合、自分自身の中で内面化される。そうして私たちは、嘘を信じたのではなく、嘘を疑う入口そのものを閉じてしまう。
嘘を暴く前に、「疑えない構造」から抜け出すために
構造録・第2章「嘘と真実」は、何が正しいかを教える本ではない。誰が嘘をついているかを暴く本でもない。
この章が扱うのは、なぜ私たちは嘘を疑う前に、自分を責める構造に組み込まれていたのか、その設計そのものだ。嘘は、声高な悪意よりも、静かな正論の中で生き残る。そして自己責任論は、その最も優秀な温床になる。
もしあなたが、「自分はずっと、間違った問いを自分に向けていたのかもしれない」と少しでも感じたなら、それは思考が止まった証拠ではない。構造が、ようやく見え始めた証拠だ。
構造録・第2章では、「嘘を信じる人」を責めるのではなく、嘘が残り続ける社会の構造を一つずつ解体していく。疑える視点を取り戻したいなら、続きを読んでほしい。
