選ばされているのに「自分で決めた」と思ってしまう理由|自己決定の錯覚と構造
この選択は、自分で決めた。そう言い切れる場面は、日常にいくつもある。進学先、就職先、商品、サービス、働き方。私たちは常に「選んでいる側」だと思って生きている。
けれど、ふと立ち止まると、こんな感覚を覚えたことはないだろうか。
・「なぜ、それを選んだのか説明できない」
・「他に選択肢があった気がしない」
誰かに強制されたわけではない。脅されたわけでも、騙されたわけでもない。それなのに、気づけば“そうするしかなかった”道を歩いている。
もし本当に自由に選んでいたのなら、選ばなかった理由も、選ばなかった未来も、はっきり想像できるはずだ。それができないとしたら──私たちは、選んでいたのではなく、選ばされていたのかもしれない。
Contents
私たちは「自由に選択している」という前提
この違和感に対して、一般的にはこう説明される。選択肢は用意されている。情報も公開されている。最終的に決めたのは自分なのだから、それは自己責任であり、自己決定だと。
選べる環境がある以上、不満があっても「自分で選んだのだから仕方ない」という結論に落ち着く。この考え方は、とても合理的で、社会を円滑に回すためにも都合がいい。
誰もが選択の主体であるなら、失敗も成功も個人の問題になる。だからこそ、「選ばされた」という感覚は、甘えや言い訳として処理されがちだ。
だが本当に、選択肢が提示されているだけで、人は自由に選んでいると言えるのだろうか。
>なぜ「選んだはずなのに」納得できないのか
この説明では、どうしても説明できないズレが残る。たとえば、選択肢が二つ以上あったはずなのに、実際には迷った記憶すらないこと。あるいは、「みんなそうしている」、「それが普通だ」という理由だけで決めてしまったこと。
選ばなかった選択肢は、最初から現実的ではないものとして頭の中から消されていた。これは、自由に選んだ結果というより、選べる範囲が先に決められていた感覚に近い。
しかも厄介なのは、その枠組みが見えないことだ。強制はない。命令もない。ただ、選択肢の並べ方、評価の基準、「正解」とされる物語が先に置かれている。
その中で選べば、どれを選んでも「自分で決めた」という感覚だけが残る。このとき、私たちは選択の主体であると同時に、選択を正当化する装置にもなっている。
ここに、「自由に選んだはずなのに、納得できない」という感覚の正体がある。──このズレは、個人の判断力の問題ではない。
「選択の自由」は、どこで決められているのか
ここで必要なのは、「あなたの判断が間違っている」という話ではない。問題は、判断そのものが生まれる位置にある。
私たちは、選択肢を前にしたときに初めて「選んでいる」と感じる。だがその前段階で、何が選択肢として提示され、何が現実的で、何が「あり得ない」とされるかは、すでに決まっている。
この見えない前提の集まりをここでは「構造」と呼ぶ。構造とは、命令でも強制でもない。空気であり、前提であり、「考えなくてもそうなる流れ」だ。
たとえば、成功とは何か、普通とは何か、失敗は誰の責任か。こうした定義が先に置かれていると、その枠内でしか選択は行われない。
だからこそ、選んだという感覚だけは本物なのに、自由だったという実感だけが残らない。私たちは、
選択をしているのではなく、構造が許した範囲で選ばされている。
そして最も巧妙なのは、その構造が「自分で決めた」という感覚を同時に与えてくれる点だ。自由は奪われていない。ただ、最初から設計されているだけなのだ。
「選ばされているのに自由だと思う」構造の正体
この構造を、もう少し具体的に分解してみよう。
① 選択肢の事前設計
まず、選択肢は無限ではない。社会や市場、制度によって「選んでいいもの」だけが並べられる。並んでいない選択肢は、存在しないものとして扱われる。
② 評価基準の共有
次に、何が「良い選択」かという基準が共有される。年収、安定、実績、肩書き、効率。この物差しがある限り、基準から外れる選択は最初から不利になる。
③ 物語による正当化
成功談、体験談、モデルケース。「こうすればうまくいく」という物語が繰り返し提示される。その結果、選択は模倣に近づいていく。
④ 結果責任の個人化
最後に、うまくいけば自己決定、失敗すれば自己責任。構造は姿を消し、選んだ個人だけが残る。
この4つが重なると、どうなるか。選択はしている。だが、選択の前提・範囲・評価・結果の解釈まですべて構造側が用意している。
それでも私たちは、「自分で決めた」と感じる。なぜなら、最終的にYESかNOを言ったのは、確かに自分だからだ。
だが、そのYESかNOを言わせる舞台は、自分が作ったものではない。これが選ばされているのに、自由だと思ってしまう構造である。
不自由さは、選択肢がないことではない。選択肢の外を想像できないことだ。そしてその状態こそが、最も管理しやすく、最も疑われにくい。──嘘は、ここに入り込む。
構造の中で語られる「自由」は、自由そのものではなく、自由であると思わせる仕組みなのだから。
あなたは、何を「自分で選んだ」と思ってきただろうか
ここまで読んで、「それでも自分は、自分で考えて選んできた」と感じているかもしれない。では、少しだけ振り返ってほしい。
・その進路は、他に本当に選択肢があっただろうか
・その仕事は、「それ以外は現実的じゃない」と思い込んでいなかったか
・その判断は、誰かの成功談や失敗談をなぞった結果ではなかったか
選んだ瞬間は、確かに自分の意志だった。
だが、その意志が生まれる前に、「選ぶべき方向」や「選ばないほうがいいもの」がすでに決められてはいなかっただろうか。
もし一度でも、「本当は違和感があったけど、仕方ないと思った」、「考えても無駄だと思って従った」そんな瞬間があったなら、あなたは自由を行使したのではなく、自由であると思える範囲に収まっただけかもしれない。
不自由なのは、選べなかったことではない。選ばされていたことに気づけなかったことだ。
「自由に選ぶ」前に、「選ばされる構造」を知るために
構造録 第2章「嘘と真実」は、「あなたは騙されている」と告発するためのものではない。
この章が解体するのは、なぜ私たちは疑問を持たずに選び続けてきたのか、その背景にある構造だ。
嘘は、間違った情報として現れるとは限らない。むしろ、「選択の自由」「自己決定」「当たり前」という顔で最も自然に入り込んでくる。
もしあなたが、「自分は何を選んできたのか」、「本当に選べていたのか」を一度きちんと確かめたいと思ったなら。
構造録 第2章「嘘と真実」は、答えを与えるのではなく、疑える視点そのものを取り戻すための記録だ。選び続ける人生を生きるなら、まずは選ばされる仕組みを知るところから始めてほしい。
