行動した人だけが「過激」と呼ばれる理由|善悪と中庸の構造録
声を上げた人が「過激だ」と言われる場面を、あなたも見たことがあるかもしれない。理不尽に対して抗議した人、問題点を指摘した人、行動を起こした人。
その内容以前に、「やり方が極端だ」「空気を読め」「もっと穏やかに」と評価される。
一方で、何もしなかった人はどうだろう。沈黙を守り、様子を見ていただけの人は、責められない。むしろ「冷静」「大人」「中立的」と言われることすらある。
ここには、どこかおかしな非対称がある。被害や問題が存在しているにもかかわらず、それに“反応した人”だけが、なぜか問題視される。
本当に危険なのは「過激な行動」なのか。それとも、この評価のされ方そのものに、別の構造が潜んでいるのか。
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「過激=悪」という分かりやすい理解
一般的には、こう説明されることが多い。
・感情的になると対立が激化する
・穏健な対話こそが成熟した態度である
・正しくても、やり方が悪ければ支持されない
この説明は、一見もっともらしい。社会は秩序で成り立っており、過度な主張は混乱を招く。だから、強い言葉や行動は「過激」として抑制されるべきだと。
実際、「過激な人がいるから話がこじれる」という経験をした人もいるだろう。そのため、「動きすぎないこと」「波風を立てないこと」が大人の振る舞いとして推奨されてきた。
この理解の中では、行動する人が批判されるのは“当然の結果”に見える。社会を守るために必要な調整のようにも思える。
だが、この説明だけでは、どうしても説明できない現象が残る。
何もしていない側は、なぜ無傷なのか
もし本当に「過激さ」が問題なのだとしたら、なぜ“何もしていない側”は、常に安全な位置にいられるのだろうか。
・問題が起きている。
・被害が出ている。
・不均衡が続いている。
それでも沈黙していた人は、「加担した」とは言われない。「責任がある」とも問われない。一方で、声を上げた人だけが
・空気を乱した
・極端だ
・面倒な人
と評価される。ここで評価されているのは、行動の“内容”ではない。行動したという事実そのものだ。
つまり、「過激」とは強さや乱暴さの指標ではなく、現状を動かそうとしたかどうかのラベルとして使われている可能性がある。行動する人は、構造を揺らす。揺らされた側から見れば、それは不快で、危険に見える。
だから、「過激」という言葉が貼られる。それは批判ではなく、現状を守るための防衛反応として。この時点で、「過激」という評価は行動の是非ではなく、構造上の位置取りを示す言葉に変わっている。
「過激さ」ではなく「構造が揺れた」という事実を見る
ここで視点を切り替える必要がある。「行動した人が過激なのか?」ではなく、なぜ“行動”そのものが危険視される構造が生まれるのかという視点だ。
多くの場面で、社会や組織、人間関係は、すでに出来上がったバランスの上で保たれている。そのバランスの中では、不満や歪みがあっても、「表に出さないこと」自体が秩序として機能している。
この状態で誰かが動くとどうなるか。問題そのものより先に、均衡が崩れる。役割分担、責任の所在、暗黙のルールが露出する。
すると、構造を守る側は直感的にこう反応する。
・「そのやり方は過激だ」
・「もっと穏やかにできたはずだ」
ここで重要なのは、それが“行動の中身への評価”ではないという点だ。実際には、構造が壊されることへの拒否反応が「過激」という言葉に置き換えられている。
つまり、「過激」とは性格評価ではない。構造に触れた人につけられる警告ラベルなのだ。
小さな構造解説|「行動=過激」になる心理構造
ここで、記事内ミニ構造録として整理してみよう。
■ 前提構造
多くの集団には、次のような前提がある。
・問題は存在している
・しかし、明確に扱われていない
・曖昧さによってバランスが保たれている
この状態では、「何もしない人」が安全圏にいる。
■ 行動が起きた瞬間
誰かが声を上げる、抗議する、拒否する。すると、次のことが一気に起こる。
・問題が“言語化”される
・責任の所在が浮かび上がる
・沈黙していた人の立場が問われる
つまり、行動した人だけでなく、周囲全体が揺さぶられる。
■ 防衛反応としての「過激」
この揺れに対して、構造は防衛に入る。
・問題の是非ではなく「言い方」を問題にする
・行動の動機ではなく「態度」を批判する
・内容ではなく「空気を乱した事実」に焦点を当てる
こうして、「行動した人=過激」「何もしない人=冷静」というラベリングが完成する。ここでのポイントは、過激かどうかは、行動の強度では決まっていないということだ。構造を揺らしたかどうか。それだけで、評価は決まる。
■ 中庸が安全に見える理由
中立・中庸・様子見が美徳に見えるのは、それが構造を温存するからだ。
しかし、温存されるのは「全員にとっての平和」ではない。声を上げないことを選ばざるを得ない人の犠牲の上に、静けさが成り立っている場合も多い。
行動した人が「過激」と呼ばれるとき、本当に守られているのは秩序ではなく、責任を引き受けずに済む位置なのかもしれない。
「過激」と呼ばれたのは、どんな行動だったか?
誰かが声を上げたとき、「言い方がきつい」、「やり方が極端」、「そこまでしなくても」といった言葉が向けられた場面を、思い出せるだろうか。
そのとき問われていたのは、本当に“やり方”だっただろうか。それとも、流れを止めたこと自体が嫌がられていただけじゃないか。
行動した人は、沈黙で保たれていたバランスを壊す。見ないふりで続いていた関係性を揺らす。だから「正しいかどうか」より先に、「空気を乱した」という理由で過激扱いされる。
では逆に聞きたい。何もしなかった人は、穏健だったのか。様子見をしていた人は、中立だったのか。その間にも、被害や不均衡は進んでいなかったか。
もし、「自分が動いたら叩かれる」、「黙っていたほうが安全」と感じた経験があるなら、それは行動が過激だからじゃない。行動だけが、構造を可視化してしまうからだ。
「過激」というラベルが守っているもの
「過激だ」「極論だ」という言葉は、議論を深めるために使われることはほとんどない。それは多くの場合、考えなくて済む位置に戻るためのラベルだ。
誰かの行動を過激と呼べば、自分が動かなかった理由を正当化できる。現状を続ける選択を、理性的に見せることができる。そうして守られるのは、秩序じゃなく、都合のいい流れだ。
構造録 第3章「善悪と中庸」は、なぜ行動した人だけが目立ち、なぜ止まっていた側が「常識」になるのかを感情じゃなく構造で解いている。
もし、「言った側が悪者になる場面」を何度も見てきたなら、一度その内容じゃなく、誰の行動が、どんな流れを止めたのかを見てほしい。過激かどうかは、本質じゃない。本当に問うべきなのは、「その行動が、何を壊し、何を守ろうとしたのか」だ。
