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無知なまま加担することは本当に無罪なのか|沈黙と中立の構造を読む

私たちはよく、「知らなかった」「事情が分からなかった」という言葉で、自分の立場を守ろうとする。職場の不正、学校でのいじめ、家庭内の歪み。

直接手を下していなくても、「自分は関係ない」と距離を取ることで、心を保ってきた人は少なくないだろう。

実際、「無知は罪ではない」という考え方は、社会の中で一定の正当性を持っている。すべてを把握できない以上、知らなかったことまで責められるのは酷だ、という感覚も自然だ。

だが一方で、こんな違和感を覚えたことはないだろうか。
・「誰も悪くないはずなのに、なぜ状況は悪化し続けたのか」
・「加害者がいないはずなのに、なぜ被害だけが残ったのか」

もし“無知”が完全な無罪であるなら、この矛盾はどこから生まれているのだろうか。

知らなかった人は悪くないという説明

一般的には、無知なまま関わってしまった人は「加害者ではない」と考えられる。悪意がなかった以上、責任を問うのは行き過ぎだ、という理屈だ。

法律や制度の世界でも、「故意」と「過失」は明確に区別される。知らずにやってしまったことと、分かっていてやったことは、同列には扱われない。これは社会を運営する上で、必要な線引きでもある。

日常レベルでも同じだ。

・「空気が分からなかっただけ」
・「深く考えていなかった」
・「自分には判断材料がなかった」

こうした言葉は、個人を過剰な罪悪感から守る役割を果たしてきた。無知=弱さであり、弱い者を責めるのは不公平だ、という倫理観もそこにある。

だが、この説明だけでは、どうしても説明しきれない現象が残る。

無知な人が、結果を動かしている現実

現実には、「知らなかった人」や「判断しなかった人」が、結果として最も大きな影響を与えている場面が少なくない。

誰も悪意を持っていない。誰も積極的に加害していない。それなのに、被害は拡大し、取り返しがつかなくなる。たとえば、

・いじめを見て見ぬふりしたクラス
・問題点を把握しながら「様子見」を続けた組織
・不合理に気づきながら「自分には関係ない」と黙った周囲

そこにいる人たちは、皆こう言う。
・「知らなかった」
・「自分にはどうしようもなかった」

だが結果だけを見れば、“止める可能性を持っていた人たち”が、何もしなかったことで事態は進行している。

このとき奇妙なのは、誰も罪を犯していないのに、構造だけが確実に人を傷つけているという点だ。

もし無知が完全な無罪であるなら、なぜこの「誰も悪くないはずの地獄」が、何度も再生産されるのだろうか。このズレは、「善悪」や「意図」だけでは説明できない。ここで初めて必要になるのが、「構造」という視点である

「善悪」ではなく「構造」で起きていることを見る

ここで一度、視点を切り替えてみよう。問題なのは、「その人が善人か悪人か」ではない。また、「知っていたか、知らなかったか」でもない。

焦点にすべきなのは、“その場の構造が、どんな行動を促し、どんな行動を封じていたか” である。

多くの人は、「知識が足りなかったから」、「判断材料がなかったから」、「自分の立場では何もできなかったから」と説明する。だが構造的に見ると、

・「知らないままでいること」
・「判断しないこと」
・「関与しないこと」

そのすべてが、ある方向に結果を押し流す力として機能している。つまり、無知は“空白”ではない。構造の中では、無知もまた一つの役割を持つ。

誰かが声を上げなかったとき、その沈黙は「何も起こさなかった」のではなく、“現状を維持する力”として働く。誰かが学ばなかったとき、それは中立ではなく、“既に起きている流れに乗る行為”になる。

この視点に立つと、「無知だから仕方ない」という説明は、善悪の話ではなく、構造を見ないことで生まれる錯覚だと分かる。

無知なままでも、構造は動く。そして構造が動く以上、そこに“完全な無関係”は存在しない。

無知が加担に変わるプロセス

ここで、「無知がどのように加担へと変わっていくのか」を小さな構造として整理してみよう。無知が機能してしまう流れは下記の通り。


問題や歪みが発生する
   ↓
一部の人は気づいているが、多くは「深く知らない」
   ↓
知らない人たちは
・関わらない
・判断しない
・責任を引き受けない
   ↓
判断と行動は、
・声の大きい人
・既得権を持つ人
・現状維持に都合のいい人
に集中する
   ↓
問題は修正されないまま進行する
   ↓
結果として、被害だけが拡大する
   ↓
後になって全員が言う
「知らなかった」「悪意はなかった」


この構造のポイントは、誰かが「悪いことをした」必要がないという点だ。

・無知
・沈黙
・様子見
・中立

これらは一見、無害に見える。だが構造の中では、それらはすべて「ブレーキが踏まれない」という作用を持つ。

ブレーキが踏まれなければ、車は自然に止まることはない。それと同じように、構造もまた、放置すれば必ず進行する。

ここで重要なのは、無知は“責任を免除する条件”ではないということだ。責任とは、意図の有無だけで決まるものではない。「その場に存在し、影響を与えうる位置にいたかどうか」それ自体が、すでに構造上の責任を生んでいる。

無知なまま加担するとは、「悪意を持って傷つけること」ではない。構造を止める可能性を放棄し、結果を他者に委ねることである。

このとき、無知は“免罪符”ではなく、最も疑われにくい形の加担へと変わる。

「知らなかった」で済ませてきた場面を思い出してみてほしい

・「そんなつもりじゃなかった」
・「知らなかっただけ」
・「自分が関わっているとは思っていなかった」

そう言いたくなった場面は、一度もなかっただろうか。

そのとき、あなたは本当に“無関係”だったのか。何も判断せず、何も選ばず、ただ流れに乗っていただけじゃないか。でもその流れは、誰かを削り、誰かを押し出し、はっきりとした結果を生んでいたはずだ。

無知は行動しない理由にはなる。でも、影響を受けていない理由にはならない。見なかったことにした間にも、声を上げなかった間にも、構造は一方向に進み続ける。

もし自分が「知らなかった側」でいることで安心してきたなら、その安心は、誰の負担の上に成り立っていたのか。一度だけ、そこを見てみてほしい。

無知が免罪符になる構造を、ここで切り分ける

無知なまま加担する人は、自分を悪人だとは思っていない。むしろ「普通」「中立」「関係ない側」にいるつもりでいる。

でも構造の中では、判断しないことは立場を失うことじゃない。既にある力関係を支える側に立つことだ。

構造録 第3章「善悪と中庸」では、なぜ「知らなかった人」ほど責任を問われず、なぜ被害だけが拡大していくのかを、善意や道徳ではなく、仕組みとして整理している。

責めるためじゃない。自分がどこに立たされていたのかを、自分で把握するためだ。無罪かどうかを決める前に、まず「自分はどの流れを止めなかったのか」を知ってほしい。そこからしか、選び直しは始まらない。

👉 構造録 第3章「善悪と中庸」を読む