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優しい人ほど消耗していく構造について|祈りと行動・構造録第4章

周りを気遣って、空気を壊さないようにして、誰かの負担を引き受ける。そうやって「優しく」振る舞ってきたはずなのに、気づけば一番疲れているのは自分だった。

怒る人ほど得をして、強く主張する人ほど守られ、何も言わない自分だけが消耗していく。それでも多くの人は、こう考えてやり過ごす。「自分の心が弱いだけ」「もっと我慢すればいい」。

でも、その感覚は本当に性格の問題だろうか。優しさを選び続けた結果として消耗しているのなら、それは偶然じゃない。


そこには、個人の資質では説明できない“同じ形の疲弊”が、あまりにも多く存在している。

「優しい人は損をする」という物語

一般的には、こう説明されることが多い。「優しい人は自己主張が苦手だから」「断れない性格だから」「自分を後回しにしてしまうから」。

つまり、消耗の原因は本人の気質や心の持ちようにあるという説明だ。

この説明は一見わかりやすい。自己肯定感を高めよう、境界線を引こう、もっと自分を大切にしよう。そう言われると、すべてが“内面の問題”に見えてくる。

でも、この説明には決定的な欠落がある。なぜ「優しい人ばかり」が、同じような場所で、同じように疲れ切っていくのか。個人差の話で片づけるには、あまりにも再現性が高すぎる。

なぜ優しさは、消耗に変わるのか

もし本当に性格の問題なら、環境が変われば楽になるはずだ。

でも現実では、場所を変えても、人間関係を変えても、同じ役割を引き受けてしまう人がいる。

・「気づいたら自分が我慢している」
・「なぜか自分だけが調整役になる」

さらに不自然なのは、優しさが評価されると言われながら、実際にはその優しさが“前提条件”として扱われる点だ。

やっても感謝されず、やらないと責められる。その状態が続くのに、状況は一向に改善しない。

ここで生じているのは、努力不足でも性格の弱さでもない。「優しさが行動を止める側に回ってしまう構造」だ。

そしてその構造は、祈りや我慢と同じように、本人に“やった気”だけを与え、現実を動かさないまま消耗させていく。

「優しさ」は性格ではなく、構造の一部として配置されている

ここで一度、見方を変える必要がある。優しい人が消耗するのは、優しいからではない。優しさが、ある構造の中で「都合よく使われている」からだ。

多くの場面で、優しさは美徳として語られる。我慢できる人、空気を読める人、相手を思いやれる人。だがその評価は、行動を促すものではない。むしろ「動かなくてもいい役割」に人を固定する。

祈りと同じ構造が、ここにある。祈ることで安心は得られるが、現実は変わらない。優しく振る舞うことで摩擦は減るが、問題は解決しない。どちらも「その場をやり過ごす行為」であり、構造そのものには一切手を触れていない。

重要なのは、優しさが悪いのではなく、優しさが行動の代替にされていることだ。「自分が我慢すれば丸く収まる」という選択が繰り返されると、現実は「我慢する人がいる前提」で最適化されていく。

その結果、優しい人は評価されながら、消耗し続ける。これは感情の問題ではない。役割と流れが固定された、完全に再現性のある構造だ。

優しさが消耗に変わる構造

ここで、優しい人が消耗していく流れを、構造として整理する。

まず、理不尽や不均衡がある状況が発生する。職場、家庭、人間関係。誰かが過剰に負担を背負い、誰かが得をしている。

そこで優しい人は、こう判断する。「自分が我慢すれば大事にならない」「波風を立てるくらいなら、黙って引き受けよう」。

この瞬間、行動の選択肢は消える。抗議、拒否、離脱、交渉といった現実を変える手段は取られず、代わりに「耐える」「受け入れる」という内向きの行為が選ばれる。

すると周囲はどうなるか。問題が表面化しないため、修正する理由がなくなる。構造は維持され、むしろ強化される。「この人は大丈夫」「この人に任せれば回る」という認識が定着する。結果、負荷は増え続ける。それでも本人は「自分が選んだ優しさだから」と納得しようとする。

これは祈りと同じだ。行動しない選択を正当化するための、内面的処理に過ぎない。

最終的に残るのは、評価されない消耗、報われない努力、変わらない現実。優しさは何も守らず、構造だけが生き延びる。

この構造録が示しているのは一つだけだ。優しさは、行動と切り離された瞬間に、消耗装置へと変わる。

その優しさは、何を止めているか

ここまで読んで、もし胸に引っかかるものがあるなら、それは「優しいから仕方ない」という説明が、自分の現実を何も変えてこなかった記憶があるからかもしれない。少しだけ、自分の立ち位置を確認してみてほしい。

本当は不満があるのに、「自分が我慢すればいい」と飲み込んできた場面はないか。断れるはずなのに、空気を壊したくなくて引き受けてきた役割はないか。問題だと気づいていながら、優しく振る舞うことで“なかったこと”にしてきた出来事はないか。

もしそれがあるなら、その優しさは誰を守っただろうか。少なくとも、あなた自身の負担は軽くなっていないはずだ。

ここで問いたいのは、善悪でも性格でもない。その優しさは、行動の代わりになっていないかという一点だ。

何かを変えるべき場面で、祈るように、耐えるように、優しさを差し出していなかったか。その選択の積み重ねが、今の消耗につながっている可能性はないだろうか。

優しさをやめろ、ではなく「構造」を見ろ

この文章は、優しさを否定したいわけじゃない。問題にしているのは、優しさが「動かない理由」として機能してしまう構造だ。

構造録 第4章「祈りと行動」では、祈り、我慢、善意、優しさが、どのように現実を止め、支配や消耗を固定してきたかを感情論ではなく、流れとして解剖している。

大事なのは、もっと頑張ることでも、もっと優しくなることでもない。どこで行動が止められているのかを、正確に見ることだ。

もし「自分もこの構造の中にいるかもしれない」と感じたなら、構造録第4章を通して読んでほしい。祈りを捨てろ、優しさを捨てろ、という話ではない。

行動を止めている正体を、見失わないための記録だ。気づいた瞬間から、選択肢はようやく現実の側に戻ってくる。

👉 構造録 第4章「祈りと行動」を読む