人間だけが自然法則を無視できると思っている理由|構造で読む分かり合えなさ
人間だけは、自然法則から自由だ。そう信じたくなる瞬間が、誰にでもあると思う。理性があり、言語があり、文化があり、道徳がある。だから本能や生存競争、血や環境といった「動物的な条件」は、もう超えたはずだと。
・「話し合えば分かり合える」
・「努力すれば差は埋まる」
・「多様性を受け入れれば、衝突は減る」
そう語るたびに、私たちは自分が自然界のルールから一段上に立っているような感覚になる。だが現実では、分断は消えず、摩擦は増え、理解は何度も破綻する。
それでもなお、人間は言い続ける。「これは自然の問題じゃない。人間の問題だ」と。
本当にそうだろうか。それとも私たちは、「人間だけは例外でいたい」という願望を、理屈に変えているだけなのか。
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人間は理性で自然を超えたという言説
一般的には、こう説明されることが多い。人間は理性を持つ存在であり、本能や遺伝に縛られない。動物と違い、価値観を学び、文化を共有し、教育によって行動を変えられる。だから自然界の「弱肉強食」や「排他性」は、人間社会には当てはまらない。
対立が起きるのは、理解不足や教育の欠如、偏見のせい。差別や分断は、まだ理性が追いついていない「過渡期の問題」だとされる。
つまり、もっと話し合い、もっと学び、もっと寛容になれば、人間は自然の制約を乗り越えられる、という発想だ。
この説明は美しい。希望があり、正しく、倫理的でもある。
だからこそ、多くの人が疑わない。「人間だけは、自然法則を超えられる存在だ」と。
理性があるのに、なぜ同じ衝突が起きるのか
だが、この説明ではどうしても説明できないズレがある。理性も教育も、過去よりはるかに発達したはずなのに、なぜ分断はなくならず、むしろ先鋭化しているのか。
多様性が進むほど、なぜ衝突は減るどころか増えているのか。理解し合う努力を重ねるほど、なぜ疲弊する側が必ず生まれるのか。
もし原因が「理解不足」だけなら、時間と教育によって状況は確実に改善するはずだ。
だが現実では、同じ構図が何度も繰り返される。国、民族、宗教、価値観、家族、恋愛、職場。場所が変わっても、摩擦の形は驚くほど似ている。
ここで初めて浮かび上がる疑問がある。もしかして問題は、「人間が自然法則を無視できていないこと」ではなく、「無視できていると思い込んでいること」そのものなのではないか。
理性は自然を消したのではなく、自然の上に薄く覆いかぶさっただけなのではないか。このズレを直視しない限り、人間は何度でも同じ問いにぶつかり続けることになる。
「人間だけ特別」という思い込みを構造で見る
ここで一度、問いの立て方を変えてみる。「人間は自然法則を無視できるのか?」ではなく、「なぜ人間は、無視できると思いたがるのか?」という問いだ。この視点に立つと、議論は倫理や理想論から離れ、構造の話になる。
人間は、自然界では極めて弱い存在だ。身体能力も、生存力も、単体では他の生物に劣る。だからこそ、人間は“意味”や“物語”を作った。
理性、道徳、平等、愛、多様性。これらは美しい理念であると同時に、自然の不公平さから目を逸らすための装置でもある。
・「人間だけは違う」
・「私たちは進化した存在だ」
そう信じることで、選別・排他・適応という残酷な現実を“過去のもの”として処理できる。
だが構造的に見れば、理性は自然を消したわけではない。自然の上に、社会という薄いレイヤーを重ねただけだ。摩擦が起きるのは、理性が足りないからではない。自然の構造が、今も作動しているからだ。
この前提に立たない限り、人間は永遠に「分かり合えない理由」を感情論で探し続けることになる。
人間が自然法則を「無視できる」と思い込む構造
ここで、この問題を一度シンプルな構造に落とす。
弱い存在としての人間
↓
集団化・言語化・意味づけの発達
↓
自然から距離を取ったという錯覚
↓
「人間は特別」という自己物語の成立
↓
自然法則(選別・適応・排他)の否認
↓
現実との摩擦が「理解不足」と解釈される
↓
同じ問題が繰り返される
重要なのは、この構造が「間違い」だと断じることではない。
これは人間が生き延びるために必要だった認知でもある。もし自然の冷酷さを真正面から受け止め続けていたら、人間社会はとっくに壊れていたかもしれない。
だが問題は、この物語を現実よりも優先してしまった瞬間に起きる。
自然界では、環境に合わないものは淘汰される。混ざらないことで、適応が固定され、種が維持される。人間社会だけが例外だと信じた瞬間、私たちは「なぜ適応できないのか」を個人の努力や善意に押し付け始める。
結果、合わせる側が消耗し、理解しようとする側が壊れ、それでも構造自体は変わらない。
ここで初めて見えてくる。問題は「人間が冷たい」からでも、「優しさが足りない」からでもない。人間が自然法則を超えた存在だと思い込み、それを前提に社会を設計してしまったこと。
このズレを認識しない限り、どれだけ理想を掲げても、同じ摩擦は形を変えて再生産され続ける。
過去の現実と照らし合わせてほしい
ここまで読んで、少しだけ自分の現実を思い出してほしい。
あなたの周りにもいないだろうか。何度話し合っても噛み合わない相手。歩み寄ろうとすればするほど、なぜか自分だけが消耗していく関係。
そのたびに、「自分の説明が足りないのかもしれない」、「もっと優しくなれば分かり合えるはずだ」。そうやって、自分を修正し続けてきた記憶はないだろうか。
でも一度、問いをずらしてみてほしい。それは本当に「努力不足」だったのか。それとも、最初から適応領域が違う構造だったのか。
自然界では、合わない環境に無理に適応し続ける個体は消耗する。それを「怠け」とは呼ばない。ただ、合わなかっただけだ。
もしあなたが今まで、「人間は分かり合えるはず」という前提のもとで、無理な適応を続けてきたのだとしたら。その苦しさは、あなたの弱さではない。前提そのものが、現実とズレていただけかもしれない。
「分かり合えないこと」に疲れているなら
構造録 第5章「種族と血統」は、「分かり合えない現実」を肯定も否定もせず、自然の構造としてそのまま描く章だ。
誰が正しいか、誰が悪いかを決めるための章ではない。むしろ、そうした善悪判断から降りるための章でもある。なぜ境界が生まれるのか。なぜ混ざらないものがあるのか。なぜ努力しても埋まらない差が存在するのか。
それらを「感情」ではなく「構造」として理解したとき、人は初めて、無理な適応から降りる選択肢を持てる。
もし今、「分かり合えないこと」に疲れているなら。一度、構造録の中でその前提を解体してみてほしい。あなたが壊れなかった理由が、そこにはちゃんと書いてある。
