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我慢を美徳にする教育が、あなたを壊した|祈りと行動の構造録

子どもの頃から、何度も言われてきた言葉があると思う。

・「我慢しなさい」
・「耐えなさい」
・「今はつらくても、そのうち報われるから」

実際、多くの人はそれを真面目に守ってきた。文句を言わず、感情を飲み込み、空気を壊さず、波風を立てないように生きてきたはずだ。

なのに、ふと気づくとおかしい。頑張ってきたはずなのに、人生は良くなっていない。むしろ、動けなくなっている。やりたいことが分からない。怒ることも、望むことも、どこか怖い。

・「自分が弱いからだ」
・「努力が足りなかっただけだ」

そうやってまた我慢を重ねていないだろうか。でも本当にそうなのか。壊れたのはあなたの性格じゃない。我慢を美徳にする教育そのものが、あなたを削ってきた可能性はないだろうか。

我慢は人を立派にするという話

世の中では、我慢は良いものだと教えられている。感情を抑えられる人は大人だし、欲を我慢できる人は立派だし、理不尽に耐えられる人は強い。学校でも家庭でも、職場でも、この価値観は一貫している。

我慢できない人は「子どもっぽい」「未熟」「協調性がない」と言われる。逆に、耐えている人は「偉い」「責任感がある」「信頼できる」と評価される。だから人は、壊れそうでも耐える。自分の限界より、評価を優先する。

この説明は、一見すると正しそうに見える。社会を円滑に回すには、感情を抑える人が必要だし、全員が好き勝手に行動したら混乱する。だから、我慢は「社会で生きるための訓練」だと言われる。

でも、この説明には決定的に説明できていないものがある。

なぜ我慢した人ほど、人生が止まるのか

もし我慢が本当に人を強くするなら、我慢してきた人ほど、人生は安定し、自由に動けるはずだ。

でも現実は逆だ。限界まで耐えてきた人ほど、選択ができなくなり、決断を避け、何かを始める力を失っていく。怒れない。断れない。欲しいと言えない。その結果、他人の都合に人生を使わされ続ける。

ここで奇妙なズレが生まれる。我慢してきた人が消耗し、我慢しない人ほど、要求を通し、得をしていく。

しかも、壊れた理由は本人のせいにされる。「ストレス耐性が低い」「メンタルが弱い」「考えすぎ」。教育や環境の話にはならない。つまり、我慢は、報われるどころか、行動と判断力を奪い、問題を固定する方向にしか働いていない

それでも「我慢は美徳だ」という話が残り続けているのはなぜか。ここで初めて、「性格」や「努力」ではなく、構造の話が必要になる。

問題は「我慢できるか」ではなく「どう設計されているか」

ここまでの話で見えてくるのは、「我慢できなかったから壊れた」のではない、という事実だ。

問題は個人の性格でも、根性でも、努力不足でもない。我慢を続けるほど、行動できなくなるように設計された構造そのものにある。

我慢は本来、短期的な回避行動だ。衝突を避ける、危険をやり過ごす、場を保つ。それ自体が悪いわけじゃない。でも教育や道徳は、それを恒常的な生き方にすり替えた。

「我慢できる人=正しい人」
「耐えること=成長」
「感情を抑えること=大人」

こうして我慢は美徳になり、疑われなくなる。

構造で見ると、我慢はこう機能する。我慢する人が増えるほど、問題は表に出ない。不満は爆発せず、反抗も起きない。結果として、現状は維持され、管理は容易になる

つまり我慢とは、個人を守る技術ではなく、秩序を壊さないための装置だった。あなたが壊れたのは、弱かったからじゃない。壊れるまで我慢させる設計の中にいたからだ。

我慢が「称賛」と引き換えに奪うもの

ここで、第4章用のミニ構造録を整理する。我慢を美徳にする教育の流れは以下のようなものだ。


苦しさ・違和感

「我慢しなさい」という教え

感情の抑圧・自己否定

周囲からの評価(立派・偉い)

問題は放置される

我慢が常態化する

行動力・判断力の低下

人生が動かなくなる


この構造のポイントは、我慢は一度も現実を変えていないという点だ。

変わっているのは、評価だけ。周囲は安心し、秩序は守られ、空気は壊れない。でも本人の状況は何一つ改善していない。さらに厄介なのは、我慢している人ほど「良い人」として扱われることだ。

・理不尽に耐える
・要求しない
・怒らない
・文句を言わない

こうした振る舞いは称賛される。その結果、本人は学習する。

・「耐えていれば否定されない」
・「動かなければ責められない」
・「欲を出すと嫌われる」

ここで人は、自分の人生より秩序を優先する癖を身につける。この状態になると、もう祈りと同じだ。何かを変えたいと感じても、行動には出ない。

「そのうち」「我慢すれば」「状況が良くなれば」といって、未来に委ね続ける。だが現実は動かない。動かないまま、消耗だけが蓄積する。

だから言い切れる。我慢を美徳にする教育は、人を育てていない。

あなたの「立派さ」は、何を止めてきたか

ここで一度、立ち止まって考えてほしい。

あなたがこれまで、「我慢してきたこと」は何だろう。言い返したかったのに飲み込んだ言葉。離れたかったのに続けた関係。嫌だと思いながら従ったルール。

それを我慢した結果、現実は本当に良くなっただろうか。

もしかすると、評価は得たかもしれない。「立派だね」「偉いね」と言われたかもしれない。でもその代わりに、自分で選ぶ感覚、動かす力、怒りや欲望を少しずつ失っていなかったか。

もう一つ、問いを投げる。もし誰にも褒められなかったら、それでも同じ我慢を続けただろうか。この問いに答えづらさを感じたなら、それはあなたが弱いからじゃない。我慢を選ぶように教育された構造の中にいた証拠だ。

壊れたのは、あなたじゃない。壊れるまで耐えさせる仕組みのほうだ。

祈りや我慢をやめたあと、何を基準に生きるか

構造録は、「もっと頑張れ」とは言わない。「我慢が足りない」とも言わない。

問いにしているのは、ただ一つ。「なぜ動けなかったのか」ということだ。その原因が、あなたの内側ではなく、外側の構造にあったのではないか、という視点だ。

祈りが安心を与え、我慢が称賛を与え、その代わりに行動を奪ってきた。

構造録 第4章「祈りと行動」では、信仰・善意・美徳がどうやって人を止めてきたのかを感情論ではなく構造で分解している。

もし今、「このままじゃ何も変わらない」と感じているなら、それは行動の才能がないからじゃない。行動しないほうが安全な場所に閉じ込められていただけだ。

構造を理解したとき、初めて選び直せる。祈るか。耐えるか。それとも、自分で決めて動くか。構造録は、その分岐点を言語化するための記録だ。

👉 構造録 第4章「祈りと行動」を読む