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人間関係

私たちは「残酷な合理性」をどこまで否定できるのか

誰かが切り捨てられたとき。能力がない、結果を出せない、適応できない——そんな理由で排除される場面を見たとき、私たちは強い違和感を覚える。

「それは冷たすぎる」、「人間らしくない」と。

社会はもっと優しくあるべきだ。弱者を守るべきだ。そう教えられてきたし、そう信じたい気持ちも確かにある。

けれど現実を見ると、世界は驚くほど平然と「合理的な判断」を下している。成果が出ない者は外され、足並みを乱す者は遠ざけられ、全体の効率が優先される。

このとき私たちは、その判断を「残酷だ」と呼ぶ。だが同時に、心のどこかでこうも思っているはずだ。「もし自分が全体を守る側だったら、同じ判断をするかもしれない」と。

この矛盾こそが、今回の問いの出発点になる。

残酷さは「人間の欠陥」だという物語

一般的には、こう説明されることが多い。

残酷な合理性が生まれるのは、人間が未熟だからだ、と。競争や選別は過去の遺物で、本来は共存と平等を目指すべきなのに、恐怖や欲望がそれを妨げているのだと。

だから私たちは、制度を変え、意識を変え、優しさを学ばなければならない。合理性より思いやりを、効率より人権を。そうすれば社会はより良くなる——これが、現代的で「正しい」説明だ。

この説明は一見もっともらしいし、倫理的にも美しい。多くの人が納得しやすく、否定しづらい。

だがこの説明には、ある重要な前提が隠れている。それは「合理性は人間が勝手に生み出した悪い癖であり、努力すれば手放せるものだ」という考え方だ。本当にそうなのだろうか。

なぜ合理性は何度も蘇るのか

もし残酷な合理性が単なる欠陥なら、なぜ歴史の中で何度も繰り返し現れるのか。なぜ文明が成熟するほど、競争や選別は形を変えて復活するのか。

平等を掲げた社会でも、最終的には「役に立つ/立たない」「成果を出す/出さない」という線引きが生まれる。

優しさを制度化しようとするほど、その制度を維持するための冷酷な判断が必要になる。ここに、説明しきれないズレがある。

さらに厄介なのは、合理的な判断が「短期的には機能してしまう」点だ。効率は上がり、全体は安定し、結果も出る。だから完全には否定できない。感情では拒否したくても、現実がそれを肯定してしまう。

このとき問題になるのは、善悪ではない。「残酷かどうか」ではなく、「なぜそれが機能するのか」という問いだ。

このズレを感情論のまま放置すると、私たちは同じ議論を何度も繰り返すことになる。優しさを叫び、裏切られ、また怒る——その無限ループから抜け出すためには、別の視点が必要になる。

ここで初めて、「構造」という考え方が意味を持ち始める。

「残酷さ」を生むのは意思ではなく構造

ここで一度、問いの置き方を変える必要がある。残酷な合理性を「誰かの冷酷な意思決定」だと考えるのをやめてみよう。

もしそれが、個人の性格や倫理の欠如ではなく、環境と生存条件が必然的に生み出す構造だとしたらどうだろうか。

集団が存在する以上、資源は有限になる。時間、エネルギー、注意、資金——すべてに限りがある。その中で存続しようとすれば、「全員を同じように扱う」ことは徐々に難しくなる。結果を出す者、適応する者に資源が集まり、そうでない者は後回しにされる。

この流れは、誰かが意地悪だから起きるわけではない。むしろ、集団を守ろうとすればするほど、冷たい判断が必要になる

ここで重要なのは、「合理性=悪」ではないという点だ。合理性は、生き延びるための手段として機能してきた。だから完全に排除しようとすると、別の形で必ず戻ってくる。

つまり、私たちが向き合うべきなのは、「残酷な合理性をなくす方法」ではなく、「それがどんな条件で発動するのか」という構造そのものなのだ。

残酷な合理性が生まれる仕組み

ここで、構造を一度シンプルに分解してみよう。

まず前提として、あらゆる集団には「存続」という目的がある。国家、企業、家族、共同体——形は違っても、共通しているのは「続かなければ意味がない」という点だ。流れは以下の通り。


① 資源の有限性

人も時間もお金も無限ではない。誰かに多く与えれば、別の誰かが少なくなる。この時点で、完全な平等はすでに不可能になる。

② 成果と貢献の可視化

資源が限られると、「誰がどれだけ役に立っているか」を測ろうとする。数値化、評価、ランキングが生まれる。ここでは善意よりも結果が重視される。

③ 集団防衛の論理

成果を出さない者、適応できない者を抱え続けると、全体が弱くなるという恐怖が生まれる。すると「切る・外す・距離を取る」という判断が正当化される。

④ 感情と倫理の後付け

判断の後で、人は理由を探す。「仕方なかった」「本人のためでもある」「全体のためだ」。ここで倫理が使われるが、決定そのものはすでに構造によって導かれている。



この流れを見ると分かる通り、残酷さは目的ではない。副産物だ。重要なのは、この構造が「悪意がなくても成立する」という点だ。むしろ、善意や責任感が強い人ほど、この判断を引き受けてしまうことすらある。

だから問いはこう変わる。「誰が悪いのか」ではなく、「この構造を選ぶと、何が必ず起きるのか」。ここまで見えて初めて、私たちは「否定できる/できない」を感情ではなく、現実として考え始めることができる。

あなたは、どこで線を引いているか

ここまで読んで、強い反発や居心地の悪さを感じた人もいるかもしれない。それは自然な反応だ。なぜなら、この構造は「外の世界」ではなく、あなた自身の選択にも深く関わっているからだ。

たとえば、あなたはこう考えたことがないだろうか。努力しない人と同じ評価を受けるのは不公平だと。チームに貢献しない人を守り続けるのは限界だと。あるいは、自分が消耗する側に回り続ける関係に、疑問を感じたことはないだろうか。

もしあなたが、どこかで「線を引くべきだ」と思ったことがあるなら、その瞬間、あなたもまた合理性を選んでいる。それは冷酷だからではない。生き延びるためだ。

では、問いはこうだ。あなたは、どこまでなら否定できるのか。そして、どこから先は「仕方がない」と感じているのか。

残酷な合理性は、遠くの誰かが使うものではない。日常の判断、関係の選択、責任の所在——そのすべてに、すでに顔を出している。

それに気づいたとき、あなたはまだ「完全に否定できる」と言えるだろうか。

この構造を、感情ではなく理解したい人へ

もしここまで読んで、「これは思想ではなく、構造の話だ」と感じたなら、構造録はその続きを用意している。

構造録 第5章「種族と血統」は、誰かを正義として裁くための章ではない。残酷さを肯定する章でもない。

ただひとつ、自然・集団・文明が、どんな条件でこの選択を繰り返してきたのかを、感情を排して描いている。

理解することは、賛成することではない。だが、理解せずに否定することは、同じ構造を無自覚に再生産する。

もし、「自分はどこで線を引いているのか」、「この世界の仕組みを、目を逸らさず見たい」と思ったなら、構造録を手に取ってほしい。そこには答えではなく、逃げ場のない視点が置かれている。

👉 構造録 第5章「種族と血統」を読む