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正義を語ると嫌われる社会で、何が守られているのか|善悪と中庸の構造

正しいことを言ったはずなのに、場の空気が一気に冷える。怒鳴ったわけでも、誰かを否定したわけでもない。

ただ「それはおかしい」と言っただけで、「面倒な人」「空気読めない人」扱いされる。そんな経験、たぶん一度や二度じゃないはずだ。

不思議なのは、誰も反論してこないことだ。「違う」とも言われない。ただ距離を取られ、話題を変えられ、なかったことにされる。正義を語ると嫌われる社会。

でもそれは、本当に「正義が嫌われている」んだろうか。

ここには、感情の問題では説明できない違和感がある。嫌われているのは正義そのものではなく、正義が触れてしまう“何か”なのかもしれない。

正義は押しつけになるという説明

この現象は、だいたいこう説明される。

・「正義を振りかざす人は、他人を追い詰める」
・「正論は人を傷つけることがある」
・「多様な価値観があるんだから、白黒つけるのは野暮だ」

つまり、正義が嫌われるのは“攻撃的だから”、“未熟だから”、“配慮が足りないから”だという説明だ。だから大人は学ぶ。正義は胸にしまえ。本音は飲み込め。波風を立てないのが賢さだと。

この説明は一見もっともらしい。実際、正論で人を殴る人間がいるのも事実だ。でも、この説明だけでは説明できない場面が残る。

誰も攻撃していないのに嫌われる正義。淡々と指摘しただけなのに疎まれる違和感。そこには、別の理由が潜んでいる。

正義が守られていないものに触れるとき

問題は、正義が誰かを責めたからではない。正義が、守られている構造そのものに触れてしまったときに、拒絶が起きる。

たとえば、

・理不尽な慣習
・誰も得していない暗黙のルール
・声の大きい人の都合
・責任の所在が曖昧な仕組み

こうしたものは、表向き「中立」「常識」「仕方ない」で守られている。そこに正義が入ると、善悪の話になる前に、構造が壊れそうになる

だから嫌われる。正義が過激だからじゃない。正義が「触れてはいけない前提」を言語化してしまうからだ。

ここで起きているのは、価値観の衝突ではない。維持されてきた秩序と、それを揺らす言葉の衝突だ。

正義を嫌う社会が守っているのは、平和でも多様性でもない。壊れかけでも続いてきた「都合のいい構造」そのものだ。——ここから先は、その構造を正面から見る話になる。

「正義が嫌われる」のではなく「構造が守られている」

ここで視点を変える必要がある。「正義を語ると嫌われる」のではない。正義が“構造”を可視化してしまうから、排除される

社会には、誰も明確に支持していないのに、なぜか維持され続けている仕組みがある。不合理だと薄々わかっている。誰かが損をしていることも、たぶん全員気づいている。それでも壊れない。

なぜか。壊さないほうが“楽”だからだ。構造は、人の善悪で成り立っていない。「正しいかどうか」ではなく、「波風が立たないか」「責任が表に出ないか」「今の位置が揺らがないか」で維持される。

正義は、この構造にとって異物だ。なぜなら正義は、

・誰が得をしているのか
・誰が損を押し付けられているのか
・なぜそれが放置されているのか

を言語化してしまう。つまり、正義は人を攻撃するのではなく、構造の不在だった“輪郭”を浮かび上がらせてしまう

だから嫌われる。正義が厳しいからじゃない。構造を維持してきた沈黙を破るからだ。

小さな構造解説|正義が嫌われる社会の内部構造

ここで、この現象を構造として整理してみる。

前提構造

・明確に悪い人はいない
・しかし、誰かが確実に消耗している
・問題は「仕組み」だが、言語化されていない

この状態では、問題は「空気」や「慣習」として処理される。誰の責任でもない。だから誰も動かない。

中立の幻想

・多くの人は「中立」でいようとする。
・正義を語らない。
・否定もしない。
・黙ってやり過ごす。

このとき、人はこう思っている。「自分はどちらにも加担していない」と。だが実際には、構造は“何もしない人”の上に成立している。黙認、見過ごし、沈黙。それらはすべて、現状維持への参加だ。

正義の登場

そこに誰かが「それ、おかしくないか?」、「このやり方、誰か犠牲になってないか?」という。この瞬間、何が起きるか。

・問題が“個人の感情”から“構造の話”に変わる
・曖昧だった責任の輪郭が見え始める
・中立でいられた人間が、立場を問われる

だから反発が起きる。

排除のメカニズム

正義を語った人は、過激、理想論、空気を壊す人、面倒な人と言われる。ここで重要なのは、正義の内容が否定されていないことだ。否定されているのは、「それを言った」という行為そのもの。つまりこれは、思想の対立ではない。構造防衛反応だ。

守られているものの正体

正義を嫌う社会が守っているのは、秩序でも平和でもない。

・責任が可視化されない状態
・誰も決断しなくていい空間
・壊れているのに続いている安心感

それらを壊さないために、正義は「扱いづらいもの」として追い出される。

正義が嫌われる社会とは、善悪を拒否している社会ではない。構造を問われることを拒否している社会だ。——ここまで見えてくると、「正義を語らないこと」が本当に中立なのもう一度考える必要が出てくる。

「正しいこと」を言えなかった場面を思い出してほしい

その場で何かおかしいと思ったのに、口に出すのをやめたことはないだろうか。

・正論すぎるからやめておこう。
・空気が悪くなるから黙っておこう。
・面倒な人だと思われたくない。

――そうやって飲み込んだ言葉は、本当に消えただろうか。

正義を語ると嫌われる社会で、多くの人は「正しさ」より「嫌われない立場」を選ぶ。でも、その瞬間に守られたのは何だったのか。

誰かの感情か。場の空気か。それとも、何も変えずに済む構造そのものだったのか。

もしあのとき、自分が一言言っていたら、関係は壊れていたかもしれない。でも、言わなかったことで、壊れなかったのは関係ではなく、不都合な現実を放置できる状態だった可能性もある。

正義を語らなかった自分を責める必要はない。ただ一度、考えてみてほしい。あの沈黙は、誰を守り、誰を孤立させ、どんな流れを温存したのか。

嫌われる正義が、なぜ存在するのかを構造で見る

正義を語る人が嫌われるのは、その人が「正しいから」じゃない。構造を止める可能性を持っているからだ。

中庸が支配する社会では、波風を立てないことが最優先になる。その中で正義は、内容よりも先に「厄介なもの」として扱われる。

構造録 第3章「善悪と中庸」では、なぜ正しい判断ほど極論と呼ばれ、なぜ声を上げた人だけが浮いた存在になるのかを感情論ではなく、流れとして整理している。

これは「正義を振りかざせ」という話じゃない。正義が嫌われるとき、何が守られ、何が失われているのかを自分の視点で見直すための章だ。

沈黙が安全だった理由を理解しない限り、同じ場面で、同じ選択を繰り返す。その構造を一度、外から見てみてほしい。

👉 構造録 第3章「善悪と中庸」を読む