「どちらでもない」を選び続けた人が、最後に失うもの|善悪と中庸の構造録
争いを避けたかっただけ。誰かを傷つけるつもりはなかった。だから「どちらでもない」という立場を選び続けてきた。
それなのに、気づけば状況は悪くなり、人間関係は歪み、自分の立場だけが弱くなっている。声を荒げたわけでも、極端な選択をしたわけでもない。ただ、決めなかっただけだ。
それなのに、なぜか「責任」を問われ、なぜか「後悔」だけが残り、なぜか「選ばなかった自分」が苦しくなる。
中立でいることは、成熟した態度だと信じてきた。穏健で、冷静で、大人の選択だと思っていた。
だが本当にそうだろうか。「どちらでもない」を選び続けた結果、私たちは何を守り、そして何を失ってきたのだろう。
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中庸は賢く、安全な立場である
一般的にはこう説明される。極端な立場に立つ人ほど、感情的で、視野が狭く、トラブルを招きやすい。だからこそ、中立や中庸は理性的で、成熟した態度だと。
・すぐに結論を出さない
・対立する双方の意見を尊重する
・感情に流されず、冷静に状況を見る
こうした姿勢は、「大人の判断」「公平な態度」として評価されやすい。組織でも、家庭でも、社会でも、「どちらでもない人」は安心できる存在として扱われる。
実際、中庸を選ぶことで、直接的な批判や攻撃を避けられる場面も多い。間違った側に立つリスクも減る。
だから私たちは、中立を「安全な場所」だと信じてきた。選ばなければ、傷つかずに済む。関わらなければ、責任も負わずに済む。そう考えてきた。
失われていくのは、なぜ自分なのか
だが、ここに説明できないズレがある。「どちらでもない」を選び続けた人ほど、最終的に発言力を失い、信用を失い、状況が悪化したあとに責任だけを背負わされる。
誰かが決断した結果に従わされ、「なぜあのとき何も言わなかったのか」と問われる。自分では選んでいないはずなのに、「黙認した側」として扱われる。
一方で、強く主張した人や、はっきり選んだ人は、たとえ失敗しても「立場」を保っていることが多い。責任の所在も明確で、次の選択肢を持っている。この差は、性格の問題ではない。判断力の優劣でもない。善意や誠実さの量でもない。
にもかかわらず、「何もしなかった人」だけが、最後に不利な場所へ押し出されていく。
中立は本当に、安全だったのか。それとも、気づかないうちに、別の何かを静かに失っていたのではないか。――その疑問に、次の節で「構造」という視点から踏み込んでいく。
問題は「態度」ではなく「構造」にある
ここで一度、問いの置き方を変えてみよう。「どちらでもない」を選んだ人が、なぜ最後に不利になるのか。それは、その人が未熟だったからでも、勇気が足りなかったからでもない。
問題は個人の態度ではなく、その態度が置かれる構造にある。対立や判断が生じる場には、必ず「結果」が発生する。誰かが決めるか、決まらないまま外圧で決まるか、いずれにせよ、決定は避けられない。
このとき重要なのは、決定のプロセスから降りた人間は、結果の形成には関与しないが、結果の影響からは逃れられないという点だ。
中立とは、宙に浮くことではない。構造の外に立つことでもない。それは「決定が行われる前に、自分の位置を確定させない」という行為にすぎない。
そして構造は、空白を嫌う。誰も引き受けない判断、誰も負わない責任は、必ず別の誰かに流れ込む。
結果として、声の大きい者、立場の強い者、正当性を語れる者が、判断を引き受ける。中庸は、その流れを止めてはいない。ただ、自分が流れを許した事実を自覚していないだけなのだ。
小さな構造解説|「どちらでもない」が失わせていくもの
ここで、「どちらでもない」を選び続けたときに、何が起きているのかを、構造として整理してみよう。
【構造の流れ】
(1) 対立・問題・判断の局面が発生する
(2) 当事者の一部が「どちらでもない」「様子を見る」を選ぶ
(3) 判断が宙吊りになり、責任の空白が生まれる
(4) 空白を埋める形で、誰かが決断する
(5) 結果が全員に及ぶ
(6) 「選ばなかった人」は結果に従わされる
このとき、「どちらでもない」を選んだ人は、決定権も持たず、交渉力も持たず、修正権も持たない。だが、結果の影響だけは平等に受け取る。
さらに厄介なのは、あとから「なぜ止めなかったのか」、「なぜ何も言わなかったのか」と問われる点だ。構造的には、沈黙は不参加ではなく、黙認として処理される。
本人がどう思っていたかは関係ない。構造は、行為しか記録しない。この過程で失われていくのは、発言の重み、交渉の余地、自分で選んでいるという感覚だ。
最終的に残るのは、「関与しなかったはずなのに、なぜか責任だけが残っている」という感覚だ。
ここで失われる最大のものは、主体性である。どちらでもない、を続けるほど、「自分は選べる」という感覚は薄れ、「決まったものに従うしかない」という位置に追い込まれていく。
中庸は、優しさや冷静さの仮面をかぶる。だがその内側では、主体性が少しずつ削られている。それが、「最後に失うもの」の正体だ。
次の節では、この構造があなた自身の経験にどう重なっているかを問い直していく。
「どちらでもない」で、何を守ってきたつもりだった?
これまでの話を読んで、こう思ったかもしれない。「自分は誰も傷つけていない」「波風を立てない選択をしてきただけだ」と。
では、少し問いを変えよう。「どちらでもない」を選び続けた結果、あなたは何を得たのか。
信頼は増えただろうか。尊重は積み重なっただろうか。それとも、気づけば判断を任されない立場になっていないだろうか。
強い意見を持たない人は、敵も作らない。だが同時に、味方も作れない。中立でいる人間は安全に見えるが、実際には「いてもいなくてもいい存在」になりやすい。
さらに厄介なのは、自分を削って維持してきた関係や環境が、いざ限界に達したとき、誰も守ってくれないことだ。
選ばなかったから失敗しなかったのではない。選ばなかったから、選ばれる理由も失っていった。その事実に、心当たりはないだろうか。
中庸を選び続けた先に、居場所は残らない
この章で一貫して語ってきたのは、「正しくあれ」でも「戦え」でもない。ただひとつ、冷酷な現実だ。世界は、判断しない人を前提に作られていない。
どちらでもない立場は、一時的な回避にはなっても、長期的な居場所にはならない。なぜなら、構造上「何も選ばない人」は、既存の流れを支える側として消費されるからだ。
構造録・第3章では、
・なぜ中庸が幻想なのか
・なぜ優しさや配慮が消耗に変わるのか
・なぜ最後に失うのが「自分の立場」なのか
その全体像を、順を追って解体している。
もし今、「このままでいいのか分からない」と感じているなら、それはもう中立ではいられていない証拠だ。選ばないことは、逃げではない。ただ、静かに削られていくだけだ。
それでも目を背けるか、構造を理解するか。第3章は、その分岐点に立つ人のためにある。
