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善意が被害を生むとき、人は責任を取らない|善悪と中庸の構造録

・「悪気はなかった」
・「良かれと思ってやった」
・「助けようとしただけ」

トラブルが起きたあと、必ず出てくる言葉だ。そして、その言葉が出た瞬間、話は止まる。誰もが「じゃあ仕方ないよね」と空気を変え、いつの間にか“被害そのもの”が話題から消えていく。

でも、違和感が残る。確かに悪意はなかったかもしれない。だが、現実として誰かは傷つき、負担を背負い、取り返しのつかない状況に追い込まれている。

なのに、なぜか誰も責任を取らない。善意だったという理由だけで、すべてが免責される。

本当におかしいのは、被害が出たことではない。善意が原因になった瞬間、責任が消える構造が、あまりにも当たり前の顔で存在していることだ。

善意は免罪符になるという発想

多くの人は、こう説明する。

・悪意がなかったなら責めるべきではない
・善意で行動した人まで叩いたら、誰も動けなくなる
・結果論で責任を問うのは不公平だ

この考え方は、一見とても人道的に見える。誰かの挑戦や行動を守るためには必要だ、という理屈もわかる。だから社会はこう教える。

「大切なのは気持ち」、「想いが正しければ、多少の失敗は許される」
結果より意図。責任より善意。

この価値観の中では、被害が生じても「仕方なかった」で終わる。善意でやった以上、それ以上の説明や引き受けは不要だ、という空気が生まれる。

だが、この説明には決定的に説明できない部分がある。

なぜ善意のあと、被害だけが残るのか

問題は、善意が被害を生んだあとに起きている。善意を示した人はこう言う。

・「そんな結果になるとは思わなかった」
・「悪気はなかった」
・「最善だと思った」

確かに、それは事実かもしれない。だが、その言葉が出た瞬間、責任は誰のものでもなくなる。被害を受けた側はどうなるか。

・相手を責めると「善意を否定する人」になる
・声を上げると「冷たい人」「過激な人」になる
・黙れば、被害だけを抱えることになる

つまり、善意が出発点だった場合、被害者のほうが立場を失う。これはおかしい。悪意がないことと、責任がないことは別のはずだ。

それなのに現実では、善意という言葉が出た瞬間、責任だけが綺麗に消える。

ここにあるのは、道徳の問題ではない。個人の性格でもない。善意が出た瞬間に、責任の接続が切断される構造、それ自体が、社会の中に組み込まれている。

このズレを理解しない限り、善意による被害は、何度でも繰り返される。

問題は「善意」ではなく「構造」にある

ここで視点を変える必要がある。善意が悪いのではない。問題は、善意が発動した瞬間に、責任が切断される構造だ。多くの議論は、こうすり替わる。

・「善意だったか、悪意だったか」
・「その人はいい人か、悪い人か」

だが、ここで人格を論じ始めた時点で、すでに本質から外れている。現実に起きているのは「善意を動機にした行為が、他人に実害を与え、その後、誰も結果を引き受けない」ということだ。

この流れは、個人の性格では説明できない。同じことが、職場でも、家庭でも、組織でも、何度も繰り返されている。つまり、これは再現性のある現象だ。再現性があるということは、背後に「構造」がある。

善意という言葉は、行為の動機を説明する言葉であって、結果を消す言葉ではない。

だが社会では、善意=免責という誤った接続が、半ば常識として機能している。ここを切り分けない限り、人は「いいことをしたつもり」で、被害だけを量産し続ける。

小さな構造解説|善意が責任を消すまでの流れ

ここで、構造として整理する。

構造①|行為の発生

ある人が行動する。動機は「助けたい」「良かれと思って」。ここまでは問題ない。

構造②|結果の発生

その行動によって、誰かの負担が増え、選択肢が奪われ、状況が悪化する。被害が「事実として」発生する。

構造③|評価軸のすり替え

ここで評価軸がズレる。本来問うべきなのは「その行動が、どんな結果を生んだか」だ。だが実際には、こう問われる。「その人に悪意はあったか?」この瞬間、結果 → 意図へと評価軸が移動する。

構造④|善意による免責

「悪意はなかった」「善意だった」という言葉が出た瞬間、結果との接続が切断される。被害は不可抗力扱い、責任は存在しないものになり、修正や補償の話が消える。

構造⑤|被害者の沈黙

被害を受けた側は、次の選択を迫られる。

・声を上げれば「善意を否定する人」になる
・怒れば「心が狭い人」になる
・黙れば、被害だけを背負う結果として、多くは黙る。

構造⑥|構造の再生産

善意は称賛され、被害は語られず、責任は誰のものでもなくなる。この構造は、「優しい社会」の顔をして、最も無責任な結果を生み続ける。


この構造の中で、人が責任を取らないのは「逃げ」ではない。取らなくて済む位置に、構造的に置かれているという、ただそれだけの話だ。

「良かれと思ってやった」行動を、振り返ってみてほしい

「悪意はなかった」、「相手のためを思っただけ」と言える行動を、これまでにいくつしてきただろうか。

その結果、相手は本当に楽になっただろうか。問題は解消されたのか。それとも、状況は少しだけ延命され、誰かが耐え続ける構造だけが残ったのではないか。

善意は、自分の内側の動機を正当化する。でも、結果まで正当化してくれるわけじゃない。むしろ「善意だった」という言葉は、結果を見る視線を曇らせる。

もしあなたが、

・空気を壊さないために何も言わなかった
・波風を立てない選択を正解だと思っていた
・誰かをかばうつもりで、別の誰かを黙らせていた

そんな場面に心当たりがあるなら。その善意は、誰を守り、誰を切り捨てる役割を果たしていたのか。一度だけ、行動の「意図」ではなく、生んだ結果から見直してみてほしい。

善意が責任を消す構造を、ここで言語化する

善意が被害を生むとき、人はなぜ責任を取らなくなるのか。それは、善意そのものが「自分は正しい側だ」という立場を与えるからだ。正しい側にいる人は、結果よりも動機で評価され、責任から一段距離を置けてしまう。

構造録・第3章「善悪と中庸」では、善意・共存・配慮といった一見安全な選択が、なぜ現実では被害を固定化し、誰も責任を取らない状態を作るのかを感情論ではなく構造として整理している。

これは「優しさを捨てろ」という話じゃない。優しさがどの位置で使われているのかを自分で把握するための話だ。

善意で済ませてきた行動の中に、本当は選び直せた瞬間がなかったか。その確認からしか、同じ被害を繰り返さない選択は生まれない。

👉 構造録 第3章「善悪と中庸」を読む