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人間関係

なぜ正しい判断ほど、極論だと言われるのか|善悪と中庸の構造

「それはおかしいと思う」

ただそう言っただけなのに、「極端だね」「考えが偏ってない?」と返された経験はないだろうか。

誰かを攻撃したわけでも、感情的に怒鳴ったわけでもない。むしろ、冷静に状況を整理し、筋の通った判断を示したつもりだった。

それでも周囲の反応はどこか冷ややかで、いつの間にか“場を乱す人”のような扱いを受けてしまう。

なぜだろう。なぜ、明確に判断した人ほど「極論」だと呼ばれるのか。この違和感は、個人の言い方や性格の問題では説明できない。そこには、もっと別の力学が働いている。

極論に見えるのは、バランスを欠いているから?

一般的には、こう説明されることが多い。

正しい判断が「極論」に見えるのは、

・視野が狭い
・相手の立場を考えていない
・白黒をはっきりさせすぎている

からだと。世の中は複雑で、多様な価値観がある。だからこそ「どちらの言い分も分かる」「中間が大事」と言われる。

強い主張は対立を生み、場を不安定にする。だから控えめで、柔らかい表現のほうが“大人の判断”だとされる。

この説明は一見、もっともらしい。だが、これだけでは説明できない現象が残る。

なぜ“何も言わない人”は極論と言われないのか

もし「極論」が本当に内容の問題だけなら、判断を放棄した人も、同じように批判されるはずだ。だが現実は逆である。

・「よく分からないから様子見で」
・「どちらにも言い分があるよね」
・「今は決める段階じゃない」

こうした発言は、ほとんど批判されない。むしろ「冷静」「大人」「空気を読めている」と評価される。ここに、明らかなズレがある。

・強い判断=極論
・判断しない態度=中立で安全

この扱いの差は、判断の“正しさ”や“論理性”では説明できない。なぜなら、「判断しない」という選択も、実際には場に影響を与えているからだ。

それでも、その影響は可視化されない。結果として、責任は常に「判断した人」に集中する。つまり、「極論」とは内容の評価ではなく、判断したという行為そのものに貼られるラベルなのではないか。

ここから、視点を変える必要がある。問題は意見の強さではなく、“判断がどの位置に置かれているか”という構造そのものだ。

「極論」は意見の問題ではなく、構造の問題である

ここで視点を変えてみよう。「正しい判断が極論に見える理由」を、個人の性格や表現力の問題として扱うのをやめる。代わりに注目すべきなのは、判断が行われる場の構造である。

多くの場では、対立が存在している。意見Aと意見B、利害Aと利害B。どちらかを選ぶということは、どちらかを否定することと同義になる。このとき、場は無意識にこうした力学を作る。

・判断した人=対立を可視化した人
・判断しない人=対立を曖昧にした人

結果として、判断した人は「分断を生んだ存在」、判断しない人は「調和を守った存在」として扱われる。

だが、ここに大きな錯覚がある。対立は、判断によって生まれたのではない。判断以前に、すでに存在していたのだ。それを言語化し、線を引いた人だけが、「極端」「過激」「白黒つけすぎ」と呼ばれる。

つまり「極論」という言葉は、意見の中身ではなく、構造を露わにした行為そのものに貼られるレッテルなのである。

小さな構造解説|なぜ判断した人だけが攻撃されるのか

ここで、構造を簡単に図式化してみよう。極論が生まれる構造は下記の通り。


① すでに対立が存在している(利害・価値観・責任の衝突)

② 多くの人は「決めない」ことで場に留まる(様子見・中立・両論併記)

③ 誰かが判断を言語化する(「それはおかしい」、「ここで線を引くべきだ」)

④ 対立が可視化される(選ばれる側、切り捨てられる側が明確になる)

⑤ 場が不安定になる(居心地の良かった“曖昧さ”が崩れる)

⑥ 不安定さの原因が、判断者に押し付けられる(「極端だ」、「空気を読め」、「過激すぎる」)


重要なのはここだ。⑥で責められているのは、判断の内容ではない。場の安定を壊したこと責任の所在を浮かび上がらせたこと、その一点である。

判断しなかった人たちは、この構造の中で“安全な位置”にいる。なぜなら、結果が悪くなっても「自分は決めていない」と言えるからだ。また、誰かが決めたあとで批評する側に回れるし、責任の矢面に立たずに済むからでもある。

そのため、判断を下す行為そのものが「危険」「過激」「極論」だと扱われる。

だが現実には、判断を避け続けた結果、より強い力・より無責任な決定が後から流れ込んでくることが多い。

それでも、その被害は「極論を言った人」ではなく、「決めなかった空白」によって生まれている。この構造を理解すると、ひとつの事実が見えてくる。

正しい判断ほど極論に見えるのではない。極論と呼ばれることで、判断そのものを無効化しようとする構造がある。

「それ、極論じゃない?」と言われた場面を思い出してみてほしい

・「それは正しいけど、極端すぎる」
・「言ってることは分かる。でも白黒つけすぎ」

そんなふうに返された経験はないだろうか。

そのとき、あなたは何を言おうとしていたのか。誰かを攻撃したかったのか。それとも、曖昧にされ続けていた問題に線を引こうとしただけじゃなかったか。

正しい判断ほど、選択を迫る。選択を迫る言葉ほど、逃げ場をなくす。だから聞く側は、内容じゃなく“形”を責める。「極論だ」という言葉で、判断そのものを無効化する。

では考えてみてほしい。その場にあった「ちょうどいい意見」は、本当に誰かを守っていたのか。それとも、何も変えないための緩衝材だったのか。

もし、あなたの判断が極論に見えたなら、それは間違っているからじゃない。現実を進めてしまう判断だったからだ。

極論という言葉が、どんな構造を守っているのか

「極論だ」と言われた瞬間、議論は止まり、空気は元に戻る。誰も選ばず、誰も責任を取らず、流れだけがそのまま続いていく。

構造録・第3章「善悪と中庸」は、なぜ正しさが嫌われ、なぜ判断が感情論にすり替えられるのかを、個人の性格ではなく構造の問題として整理している。

正しいかどうかより、「その判断が、どの流れを止めるのか」。そこを見ない限り、極論という言葉は何度でも使われる。

もし、「分かっているのに言えなかった」、「言った瞬間に空気が変わった」という経験があるなら、それはあなたの問題じゃない。

判断が嫌われる仕組みを知ること自体が、もう一段深い選択となる。

👉 構造録 第3章「善悪と中庸」を読む