「『いいね』はつくのに世界が変わらない理由|共感が行動を生まない構造」
SNSに投稿すれば「いいね」はつく。共感のコメントも集まる。「分かる」「それな」「本当にそう」。けれど、ふと気づく。——世界は何も変わっていない。
怒りも問題も、昨日と同じ場所にある。賛同は増えているのに、現実は一歩も動いていない。発信する側も、受け取る側も、どこかで薄々感じているはずだ。
・「こんなに共感されているのに、なぜ何も起きないのか?」
・「これだけ正しいことを言っているのに、なぜ現実はそのままなのか?」
それでも私たちは、また投稿し、また「いいね」を数える。まるでそれ自体が、何かを変えた証拠であるかのように。この違和感は、個人の努力不足ではない。問題は、もっと深いところにある。
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「共感が広がれば、いつか行動につながる」という期待
一般的には、こう説明されることが多い。
・「まだ人数が足りない」
・「もっと拡散されれば変わる」
・「いいねが増えれば、空気が変わり、やがて行動が生まれる」
つまり、共感の“量”が臨界点を超えれば、世界は自然に動き出す、という考え方だ。
だから私たちは、より分かりやすく、より感情に訴え、より多くの人に届く言葉を探す。バズること、共感されること自体が、正義の前進だと信じている。
この説明は、一見もっともらしい。実際、「いいね」は支持の証であり、無関心よりははるかに健全に見える。
だが、この理屈には致命的な欠落がある。それは、「なぜ今まで、無数の共感が行動に変わらなかったのか」を説明できていない点だ。
共感は増えているのに、行動だけが増えない理由
現実には、共感はすでに十分すぎるほど存在している。社会問題、労働環境、政治、差別、不正。どのテーマにも「いいね」はつき、怒りや同情は共有されている。それでも、多くの人は何もしない。
ここで奇妙なズレが生じる。人々は「分かっている」。問題があることも、自分が当事者であることも、頭では理解している。それでも動かない。
これは怠惰や無関心の問題ではない。むしろ逆だ。共感は、人を「安全な場所」に留める作用を持っている。
いいねを押すことで、私たちは「関わった気」になれる。声を上げなくても、リスクを取らなくても、「自分は分かっている側だ」という安心を得られる。共感は行動の前段階ではなく、行動を代替してしまう装置になっている。
だから世界は変わらない。共感が足りないからではない。共感が、行動を必要としない形で完結してしまう構造の中にあるからだ。
「伝わっている」のに動かないのではない。「伝達が成立していない」
ここで一度、前提をひっくり返す必要がある。「いいねがついている=伝わっている」という認識そのものが、間違っている。
共感とは、情報の理解や感情の同調を意味するだけで、行動の起動条件ではない。人は、分かったから動くのではなく、「動かずにはいられなくなったとき」にしか動かない。
構造録でいう「教育」や「伝達」とは、知識を渡すことでも、正しさを共有することでもない。それは選別と点火のプロセスだ。つまり、
・誰に向けて語っているのか
・その人の中に、すでに火種があるのか
・言葉が「安全な共感」で終わる設計になっていないか
ここが決定的に重要になる。
「いいね」は、伝達の成功を示す指標ではない。むしろそれは、行動が発生していないことの証拠である場合すらある。
伝わったように見えているのは、実際には「行動を伴わない理解」が量産されているだけだ。問題は人の意識の低さではない。構造が、動かなくて済むように設計されていることにある。
「いいね止まり」が量産される構造
ここで、「なぜ世界が変わらないのか」を一度、冷静に構造として分解してみよう。現代の共感伝達構造は下記の通りだ。
問題提起
↓
分かりやすい言語化
↓
共感(いいね・コメント)
↓
安心・自己肯定
↓
行動せず終了
この流れの中で、行動は一度も要求されていない。共感は、本来なら次の一歩への橋になるはずだった。しかし現代では、共感そのものがゴールになっている。なぜなら、共感はノーリスクで善人になれる行為だからだ。
・時間を使わなくていい
・立場を失わなくていい
・失敗もしない
・誰にも敵対されない
それでいて「分かっている側」に立てる。これほど都合のいい行為はない。
さらに発信側も、この構造に巻き込まれる。反応が可視化されることで、「届いている」「意味がある」という錯覚が生まれる。だが実際には、火は誰にも移っていない。
構造録的に言えば、ここで行われているのは「教育」ではなく、感情の循環でしかない。
本当の教育は、
・リスクを伴う
・行動のモデルを見せる
・「自分もやれるかもしれない」という未来像を提示する
このどれかが必ず含まれる。「いいね」だけで完結する構造には、人を動かす要素が一つも存在しない。
だから世界は変わらない。意識が低いからでも、正しさが足りないからでもない。変わらないように設計された伝達構造の中で、みんなが誠実に共感しているだけなのだ。
あなたは、どこで止まっているのか
ここまで読んで、もし「分かる」「その通りだ」と感じているなら、それ自体がすでに一つの問いを含んでいる。
あなたはこれまで、何度「いい話だ」と感じ、何度「大事なことだ」と理解し、何度「共感した」と反応してきただろうか。
そして、その中で実際に行動を変えたものはいくつあっただろうか。
発信する側だった人もいるかもしれない。
・「伝えているのに、誰も動かない」
・「いいねはつくのに、何も変わらない」
そんな無力感を感じたことはないだろうか。もしそうなら、一度立ち止まって考えてほしい。あなたは本当に“動かすつもり”で語っていただろうか。それとも、
・分かってもらえればいい
・共感してもらえれば救われる
・嫌われずに正しさを伝えたい
そんな安全圏の中に、自分も留まっていなかっただろうか。
この問いは、誰かを責めるためのものではない。「どこで火を止めてしまっているか」を自分自身で確認するための問いだ。
それでも火を渡したいなら
構造録 第7章「教育と伝達」では、ここで止まってしまう人間の心理をさらに掘り下げていく。
・なぜ正論では人は動かないのか
・なぜ共感は行動に変わらないのか
・どうすれば“分かった人”ではなく“動く人”が生まれるのか
その答えは、「もっと分かりやすく説明すること」でも「より多くの人に届けること」でもない。誰に、どんな姿を見せるのか。どこで選別し、どこで覚悟を示すのか。
教育とは、伝えることではなく、火が移る構造をつくることだという前提から、この章は書かれている。
もしあなたが、「もう共感だけで終わる言葉を量産したくない」と感じているなら、この先は、きっと無視できない内容になるはずだ。
