SNSで人が動かないのはなぜか|共感が行動に変わらない構造を解説
SNSで発信すれば、反応は返ってくる。いいねもつくし、共感のコメントも並ぶ。それなのに、現実はほとんど何も変わらない──そんな感覚を抱いたことはないだろうか。
問題提起をしても、正しい指摘をしても、社会が動く気配はない。むしろ、時間が経てばその話題自体が流れて消えていく。
「自分の言葉が浅いのか」「影響力が足りないのか」と悩む人も多いだろう。しかし、この違和感は個人の能力の問題ではない。
SNSという場そのものに、人が動かなくなる仕組みが組み込まれている可能性がある。
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拡散力が足りないから動かないという説明
SNSで人が動かない理由として、よく語られるのは「影響力不足」や「伝え方の問題」だ。フォロワー数が少ないから、言葉が刺さらないから、感情に訴えていないから──そう説明される。
だから人は、より強い言葉を使い、より過激な表現を選び、より多くの反応を集めようとする。
拡散されれば、いつか誰かが行動してくれるはずだと信じて。この説明は一見もっともらしい。
しかし実際には、何万回拡散されても、社会がほとんど動かない事例はいくらでも存在する。この説明だけでは、決定的な何かが抜け落ちている。
なぜ『分かっている人』ほど、何もしないのか
SNSには、問題を理解している人が大量に存在している。構造的な欠陥も、理不尽さも、すでに多くの人が知っている。それでも行動は起きない。
もし「知らないから動かない」のなら、説明や共有を重ねれば変化が起きるはずだ。しかし現実は逆だ。理解が広がるほど、空気は落ち着き、行動の気配は遠のいていく。
ここに、一般的な説明では説明できないズレがある。人は知れば動くわけでも、共感すれば立ち上がるわけでもない。むしろSNSは、「分かったつもり」で止まるための装置として機能している。
問題は言葉の強さではなく、意識の回路そのものだ。このズレを直視しない限り、SNSで人が動かない理由は見えてこない。
人が動かないのではなく動かなくなる構造がある
SNSで人が動かない理由を、個人の意識や倫理の問題として捉える限り、この現象は理解できない。必要なのは、「誰が悪いか」ではなく「どういう仕組みになっているか」という視点だ。
構造とは、人々の意思決定を無意識に誘導する配置のことを指す。SNSでは、発言・共感・評価・可視化がすべて軽量化されている。ワンクリックで賛同でき、言葉を使えば参加した気になれる。この時点で、人はすでに「関わった」と感じてしまう。
だが、行動とは本来、コストとリスクを伴うものだ。時間、立場、人間関係、場合によっては安全すら失う。その重さと比べると、SNS上の反応はあまりに軽い。
この落差こそが重要だ。SNSは人を無関心にする装置ではない。むしろ逆で、「動いた気分」だけを大量に生産する構造を持っている。
つまり、人が動かないのではなく、動かなくても満足できる回路が完成している。この構造を理解しない限り、「なぜ動かないのか」という問いは、永遠に個人批判の堂々巡りになる。
SNSが『教育装置』として失敗するまでの流れ
ここで、SNSを「人を動かす教育装置」として見たときの構造を整理してみよう。
まず、発信者が問題提起を行う。正論であり、論理も整っている。次に、受け手が共感する。「それはおかしい」「同意する」という反応が生まれる。ここまでは、教育が成功しているように見える。
しかし、ここで構造的な断絶が起きる。
共感は安全圏の行為であり、行動ではない。SNS上の共感は、現実のコストを一切伴わない。結果として、共感が「免罪符」として機能し始める。「賛成した自分」は、もう十分に正しい側に立ったと錯覚するのだ。
さらに、SNSには評価の可視化がある。いいね数、リツイート数、再生数。
これらは本来、内容の価値を測る指標ではないが、人は無意識に「数=影響力」と解釈する。その結果、発信の目的は「行動を生むこと」から「反応を集めること」へとすり替わる。この構造の最終形はこうだ。
・発信者は評価を集める
・受け手は共感で満足する
・誰もリスクを取らない
ここには「次の一歩」が存在しない。教育とは、本来「自分もやってみよう」と思わせる行為だ。
しかしSNSでは、やっている“誰か”の姿がほとんど見えない。言葉だけが流通し、行動が可視化されないからだ。
人が動くのは「正しさ」を知ったときではない。「動いている姿」を見たときだ。
SNSは思想を広げる場にはなっても、行動の火を灯す場にはなりにくい。ここに、現代的教育の決定的な限界がある。
あなたは、どこで止まっているだろうか
ここまで読んで、少し胸が痛くなった人もいるかもしれない。それは、この構造が「誰かの話」ではなく、自分自身の行動にも当てはまるからだ。
あなたはこれまで、「いいことを言っている」と思う投稿に共感し、「大事な指摘だ」と感じ、「自分も同じ意見だ」と安心したことはないだろうか。
では、そのあと何が起きただろう。生活は変わっただろうか。行動は増えただろうか。立場や時間、何かを差し出す決断をしただろうか。
多くの場合、答えは「何も変わっていない」だ。それは意志が弱いからではない。共感した時点で、心が「やったつもり」になってしまう構造の中に、私たちはいる。
もし今、あなたが「分かっているのに動けない」、「正しい話を読んで満足してしまう」。そんな違和感を抱いているなら、それは失敗ではない。
それは、次の段階に進める位置に立っている証拠でもある。
それでも、人はどうやって動き始めるのか
構造録 第7章「教育と伝達」では、ここからさらに一歩踏み込む。なぜ正論は無力なのか。なぜ共感では人は動かないのか。そして、それでもなお、人が本気で変わる瞬間はどこに生まれるのか。
答えは「説得」でも「情報量」でもない。鍵になるのは、火がつく順番と、見える未来、そして行動する“姿”だ。
教育とは、全員を動かす技術ではない。むしろ、動く者だけが選び取られていく過程に近い。
もしあなたが、「どうすれば伝わるのか」ではなく、「なぜ伝わらなかったのか」を本気で知りたいなら、この章はその違和感を、はっきりと言語化してくれるはずだ。
ここから先は、理解の話ではない。動き始める人間が、どう生まれるかの話になる。
