「安全のため」という言葉は、なぜ疑われないのか|思考停止を生む構造
「安全のためです」と言われて、強く反論した経験はあるだろうか。多くの場合、私たちはその言葉を聞いた瞬間、考えるより先に納得してしまう。安全であることは良いことだ。危険を避けるのは正しい。
そう教えられてきた私たちにとって、「安全のため」は疑う対象ではなく、従う理由として機能してきた。
けれど、ふと立ち止まると違和感が残る。その安全は、誰にとっての安全なのか。どんな危険と引き換えに、何が失われているのか。
そうした問いが差し込まれる前に、「安全のため」という言葉は、思考を静かに終わらせてしまう。
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安全は最優先されるべきという前提
一般的にはこう説明される。社会には常にリスクがあり、それを減らすためには一定の制限やルールが必要だ。
多少の不便や自由の制限があったとしても、安全が守られるなら仕方がない。安全を軽視する人は無責任で、危険を招く存在だと。
この説明は一見すると合理的だ。実際、安全対策によって救われた命もあるし、事故が減った事例もある。
だからこそ「安全のため」という言葉は、善意と責任をまとい、反論しにくい。疑うこと自体が、危険を肯定する行為のように感じられてしまう。
なぜ「安全のため」は、検証されないまま通過するのか
ただ、この説明では説明できないズレがある。それは、「安全のため」と言われた瞬間、なぜ私たちは検証をやめてしまうのか、という点だ。
本来、安全とは程度や条件、代替案を比較して判断されるもののはずだ。
それにもかかわらず、「安全のため」という言葉が出た途端、どのリスクなのか、誰が決めた基準なのか、その効果は検証されたのか、といった問いは消えていく。
結果として残るのは、安全そのものではなく、「安全だと言われたから従った」という事実だけだ。
そこでは安全が目的ではなく、判断停止の合図として使われている。このズレは、個人の慎重さや知識不足では説明できない。もっと別の仕組みが、私たちの思考を止めている可能性がある。
問題は「安全かどうか」ではなく、「誰が考えなくてよくなるか」
ここで視点を変えてみよう。問いは「その対策は本当に安全か」ではない。なぜ「安全のため」という言葉が出た瞬間、考えなくてよくなる構造が成立するのかだ。
安全は本来、判断の結果である。複数の選択肢を比較し、リスクとコストを検討し、暫定的に選ばれるものだ。
しかし現実では、安全は「結論」としてではなく、最初から疑問を封じる合言葉として使われることが多い。
このとき、安全は目的ではなく装置になる。装置とは、人の行動や思考を一定方向に流す仕組みのことだ。「安全のため」と言われた側は、疑えば危険を肯定する側に回るような感覚を植え付けられる。その結果、判断そのものを引き受けなくなる。
つまり問題は、安全か危険かではない。安全という言葉が、誰の責任を消し、誰の思考を止めるかという構造にある。
「安全のため」が成立するまでの構造
ここで、この現象を小さな構造として整理してみよう。まず前提として、
① 安全は善である
② 危険は悪である
という価値観が社会全体で共有されている。次に、判断の場面で、
③ 「安全のため」という言葉が提示される
するとこの時点で、選択肢は二択に縮減される。「従う」か「危険を肯定するか」。本来存在したはずの、その安全の定義は何か、別の方法はないのか、失われるものは何かという問いは、ここで消える。さらに、
④ 判断の責任が個人から外れる
「安全のためだから仕方ない」この言葉によって、決めたのは誰か、検証したのは誰か、という問いが宙に浮く。最後に、
⑤ 検証されない安全が前例として積み上がる
一度通った「安全のため」は、次も通る。疑われなかった事実そのものが、正しさの根拠になる。こうして、安全は守る対象ではなく、思考停止を再生産する仕組みとして残り続ける。
ここで重要なのは、この構造に悪意は必須ではないという点だ。誰かが嘘をついているからではない。善意と配慮だけで、疑われない言葉は完成してしまう。この構造を理解しない限り、私たちは「安全かどうか」を議論しているつもりで、実際には考えるかどうかを奪われ続ける。
あなたは「安全のため」に、何を考えなくなったのか
ここまで読んで、「でも自分は、流されてきたわけじゃない。」そう思っているかもしれない。では、少しだけ自分に問いを向けてみてほしい。
・最近「安全のためだから」と納得した決定は何だっただろうか
・そのとき、別の選択肢を自分で検討しただろうか
・あるいは、考える前に「仕方ない」と結論づけていなかっただろうか
職場のルール、社会の仕組み、日常の制限。それらの中に、「危険かもしれないから」「責任を取りたくないから」という理由で、誰も検証しなくなった前提はいくつあるだろう。
もし疑問を感じた瞬間があったとしても、「自分が間違っているかもしれない」、「面倒な人だと思われたくない。」そんな理由で、その思考を引っ込めてこなかっただろうか。
安全を優先した結果、失われたのは自由だけではない。考える権利そのものだったのかもしれない。
「安全かどうか」を判断する前に、「考えていい位置」に戻るために
構造録・第2章「嘘と真実」は、安全を否定するための章ではない。正しさをひっくり返すための本でもない。
この章が扱うのは、なぜ私たちは「疑わなくていい立場」に置かれてきたのか、その構造そのものだ。
危険は確かに存在する。だが同時に、疑われない安全もまた、静かに思考を奪っていく。
もしあなたが、「自分はいつから考えなくなったのだろう」と少しでも立ち止まったなら、それは不安になった証拠ではない。思考を、誰かの言葉から取り戻し始めた証拠だ。
構造録・第2章では、「何が真実か」ではなく、「なぜ真実だと感じてしまうのか」を解体していく。考えてもいい位置に、もう一度、自分を戻したいなら──続きを読んでほしい。
