人の気持ちを考えすぎると、なぜ自分が壊れるのか|善悪と中庸の構造
人の気持ちを考えることは、良いことだと教えられてきた。相手の立場に立ち、傷つけない言葉を選び、空気を乱さないように振る舞う。そうしてきた人ほど、周囲から「優しい人」「思いやりがある人」と評価される。
けれど、なぜかその役割を長く続けている人ほど、疲れ切っていく。怒ることも、拒むこともできず、気づけば自分の本音がどこにあるのか分からなくなる。
「相手の気持ちを考えただけなのに」、「良かれと思ってやってきただけなのに」と思いながら、心や体が先に壊れていく。
ここには一つの違和感がある。人の気持ちを大切にしてきたはずなのに、なぜ“自分”だけが削られていくのか。それは優しさが足りないからではない。むしろ、その逆である可能性が高い。
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「考えすぎ」「共感しすぎ」が原因だと言われる
この問題は、よく次のように説明される。
・「人の気持ちを考えすぎてしまう性格だから」
・「共感力が高すぎるから疲れるんだ」
・「もっとドライになった方がいい」
つまり、原因は個人の性質や気質にあるという説明だ。繊細すぎる、真面目すぎる、責任感が強すぎる。だから自分を守れず、消耗してしまうのだと。
この説明は一見すると納得しやすい。実際、当人も「自分が弱いから」「自分が気にしすぎるから」と受け入れてしまいやすい。
改善策としては、
・考えすぎないようにする
・割り切る練習をする
・自己肯定感を高める
といった方向が提示されることが多い。だが、この説明には決定的に説明できていない点が残っている。
壊れていくのは、いつも同じ配置にいる人
もし本当に原因が「考えすぎる性格」だけにあるのなら、同じように気遣いのできる人は、同じように壊れていくはずだ。
だが現実は違う。人の気持ちを考えても、消耗しない人も確かに存在する。一方で、なぜか「いつも気を遣う側」「場を収める側」「我慢する側」に回る人だけが、継続的に削られていく。
さらに奇妙なのは、その人が壊れかけても、周囲はあまり困らないことだ。むしろ、「今まで通り」を期待し続ける。優しさが止まった瞬間だけが問題視され、優しさを続けている間の負担は見えないままになる。
これは性格の問題では説明できない。同じ「共感力」や「思いやり」を持っていても、壊れる人と壊れない人が分かれるのはなぜか。
ここで初めて見えてくるのが、「人の気持ちを考える」という行為そのものではなく、それを引き受けさせられる“位置”と“役割”の問題である。
問題は心の強さではない。配置されている構造そのものにある。
「壊れやすさ」は性格ではなく、構造で決まる
ここで視点を切り替える必要がある。人の気持ちを考えすぎるから壊れるのではない。考え続ける役割を、常に引き受けさせられている構造が、人を壊していく。
重要なのは、「誰が」「どの立場で」共感をしているかだ。集団や関係性の中には、無意識のうちに役割分担が生まれる。
・空気を読む人
・衝突を避ける人
・相手の事情を先に考える人
・場を丸く収める人
こうした役割を担う人は、決断や責任の前段階を引き受ける。感情の調整、衝突の緩和、摩擦の吸収。そのすべてを「優しさ」として処理している。
一方で、決断する人、要求する人、感情をそのまま出す人は、その調整コストを負担しない。
ここに非対称が生まれる。考える人だけが考え続け、背負う人だけが背負い続ける。つまり問題は、「共感しやすい性格」ではなく、共感を“止める権限”を持たない位置に固定されていることにある。
構造を見ずに「考えすぎ」と片付ける限り、人は同じ場所で、同じ壊れ方を繰り返す。
「共感が集中する場所」で起きていること
ここで、構造として整理してみよう。
- (1) 人間関係・組織・家庭において対立や不安が発生する
- (2) 誰かが「場を荒立てない役割」を引き受ける
- (3) その人物が、相手の気持ち・事情・背景を過剰に考える
- (4) 周囲はその調整に依存し、判断や責任を委ねる
- (5) 調整役は感情を抑え続け、自分の不満を後回しにする
- (6) 不満は外に出ず、内側で蓄積される
- (7) 限界が来たとき、「急に壊れた人」として扱われる
ここで重要なのは、この構造では優しさが報われる仕組みが存在しないという点だ。 - 調整役が存在することで、
- ・対立は表面化しない
- ・不満は見えない
- ・決断は先送りされる
結果として、周囲は「問題がない」と誤認する。そのため、調整役がどれだけ消耗しても、構造自体は修正されない。
さらに厄介なのは、この役割が「善意」「思いやり」「大人の対応」として称賛されることだ。称賛されるが、守られない。感謝されるが、負担は減らない。評価されるが、権限は与えられない。
だからこそ、この位置にいる人ほど、声を上げるのが遅れる。「自分が我慢すればいい」、「今までもやってきたから」と限界まで耐えた末に、心や身体が壊れる。
これは弱さの問題ではない。共感が一方向に流れ、戻ってこない構造の問題だ。
人の気持ちを考えること自体は、決して悪ではない。だが、その行為が「常に自分だけが引き受ける前提」になった瞬間、それは善意ではなく、消耗装置になる。
「気持ちを考えてきた自分」は、どこまで削られているか
ここで、少し自分の行動を振り返ってみてほしい。これまでの人間関係で、「相手の立場を考えたら言えなかった」、「ここで波風を立てるのは違うと思った」という場面は、どれくらいあっただろう。
そのたびに、相手は楽になり、その分、自分の中には何が残っただろうか。多くの場合、疲労、違和感、言葉にできない怒りが静かに蓄積していく。
人の気持ちを考えること自体は、悪ではない。だが問題は、それが一方向にだけ使われ続けている構造だ。
相手の感情を優先する。自分の不快感は後回しにする。衝突を避けるために、境界線を引かない。この状態が続くと、「相手の感情=最優先」、「自分の感覚=無視していいもの」という配置が固定される。
結果として壊れるのは、関係ではなく、自分の判断力と自己感覚だ。
もし今、「何が嫌なのかわからなくなっている」、「断ると罪悪感が出る」、「我慢しているのに関係が良くならない」と感じているなら、それは弱さではない。気持ちを考える役割を、一人で引き受け続けた結果だ。
「考えすぎない努力」では、構造は変わらない
構造録 第3章「善悪と中庸」が言っているのは、「もっと鈍感になれ」とか、「人の気持ちを考えるな」という話じゃない。問題は、誰の感情が守られ、誰の感情が切り捨てられる構造に立たされているかだ。
優しさや共感は、対等な場では機能する。だが力の差がある場所では、それは一方的に吸い取られる資源になる。この章では、
・なぜ配慮する人ほど壊れていくのか
・「思いやり」が免罪符として使われる仕組み
・感情を尊重しているつもりで、現実が歪む理由
を、性格論ではなく構造として扱っている。もし、「ちゃんと考えてきたのに、なぜ自分だけが限界なのか」と感じているなら、必要なのは反省じゃない。
自分が置かれている配置を、冷静に見直す視点だ。構造録 第3章「善悪と中庸」は、そのための地図になる。
