常識を疑えと言われずに育った私たちの不自由さ|嘘と真実の構造
「常識を疑え」と言われることはある。だが、実際にそれを“教えられた”記憶がある人は、どれほどいるだろうか。
学校では、正解を早く出すことが評価され、職場では、空気を読むことが求められ、社会では、「みんなそうしている」が安心材料になる。疑問を持つより、従うほうが楽で、考えないほうが安全だった。
その結果、私たちは「何が正しいか」を考える力ではなく、「正しいとされているものに合わせる力」だけを鍛えられてきた。違和感を覚えても、それを言葉にする前に、「自分が間違っているのかもしれない」と飲み込んでしまう。
この息苦しさは、性格の問題ではない。育てられ方の問題であり、構造の問題だ。
Contents
常識は社会を円滑にするためのもの
一般的には、こう説明される。常識とは、社会をスムーズに回すための共通ルールであり、それを疑いすぎると、衝突や混乱が生まれる。
だから、まず受け入れる、疑問は後回し、全体の調和を優先すること。それが「大人の振る舞い」だと教えられる。実際、常識があるからこそ、説明しなくても通じることが増え、余計な摩擦を避けることができる場面も多い。
・「みんなが守っているから安心」
・「前からそうだから間違いない」
そう信じることで、私たちは考えるコストを下げ、社会の中で無難に生きることができる。常識とは、思考を省略するための便利な道具。そう理解されている。
常識を守っているのに、なぜ苦しいのか
だが、この説明では、どうしても説明できないズレがある。
常識を守っているはずなのに、なぜこんなにも息苦しいのか。なぜ「正しく生きている」はずなのに、心のどこかで納得できないのか。
・言われた通りに進学した
・空気を読んで働いている
・問題を起こさないよう振る舞っている
それでも、「これでいいのか」という違和感は消えない。もし常識が本当に社会を円滑にし、人を守るものなら、守っている側がここまで疲弊するはずがない。
さらに厄介なのは、常識に疑問を持った瞬間、「ひねくれている」「考えすぎ」「面倒な人」とラベルを貼られることだ。疑うこと自体が、危険で、未熟で、扱いづらい行為として排除される。
この時点で、常識は「共有ルール」ではなく、思考を止めるための装置になっている。
問題は、常識があることではない。常識を疑う訓練を、一切されてこなかったことだ。ここに、私たちの不自由さの正体がある。
「疑わない人間」を量産する構造
ここで視点を切り替える必要がある。問題は、私たちが臆病だからでも、頭が悪いからでもない。最初から「疑わなくていい」ように設計された環境で育ったという事実だ。
教育、組織、メディア。これらが一貫して教えてきたのは、「考え方」ではなく「前提」だった。
・これは正しい
・これは普通
・これはみんなやっている
その“前提”を覚えることが優秀さであり、疑問を差し挟む行為は「空気を乱すもの」として扱われる。つまり、常識とは検証された真実ではなく、検証しなくて済むように固定された思考の型なのだ。
重要なのは、誰かが意図的に騙そうとしたわけではない点だ。
疑わないほうが、管理しやすく、衝突が少なく、組織は回しやすい。だからこの構造は、「悪意」ではなく「効率」の名のもとに広がってきた。
その結果、私たちは「自分で判断する力」を鍛えられる前に、「疑わないことが正しい」という感覚を刷り込まれた。不自由さの正体は、思考力の欠如ではない。思考を止める前提の中で生きてきたことにある。
常識が嘘に変わるまでの構造
ここで、「常識がどのようにして嘘として機能し始めるのか」を構造として整理してみよう。「疑わない常識」が生まれる流れは以下の通り。
① 社会的に“良さそう”な言葉が提示される
安全、平等、努力、我慢、正しさ。誰も反対しにくい言葉が、最初に置かれる。
② 教育・組織・メディアで繰り返される
同じ言葉が、教科書、上司の指導、ニュース、広告で反復される。ここではまだ嘘ではない。ただの「よく聞く考え方」だ。
③ 検証されない前提として固定される
何度も聞くうちに、「それを疑う理由」が失われる。疑問を持つ側が「変わり者」「面倒な人」になる。
④ 前提に沿わない現実が“例外”扱いされる
うまくいかない人は、構造ではなく「本人の問題」に回収される。ここで初めて、前提が現実を歪め始める。
⑤ 常識が嘘として機能し始める
現実を説明するための道具だったはずの常識が、現実を否定するための装置に変わる。
この構造の恐ろしい点は、嘘が「嘘として現れない」ことだ。
誰かが明確に嘘をついているわけではない。ただ、疑わなくていい形で提供され続けた結果、検証不能な前提が真実の座に居座る。
そして私たちは、疑う力を持たないまま、その前提の中で選択し、行動し、消耗していく。
この章が扱うのは、「騙されたかどうか」ではない。疑うという選択肢を最初から奪われてきた構造そのものだ。
次に問うべきなのは、「誰が嘘をついたのか」ではない。「なぜ、疑う必要がないと思わされてきたのか」だ。ここから先で、その核心に踏み込んでいく。
あなたは、いつ疑うことをやめたのか
ここまで読んで、「でも自分は、ちゃんと考えて生きてきた」と感じているかもしれない。
では、少しだけ立ち止まって考えてほしい。
・その判断は、本当に自分で検証したものだろうか
・それとも「そういうものだ」と教えられた前提に従っただけだろうか
仕事、常識、成功、失敗、正しさ。あなたが疑わずに受け入れてきたものの中に、一度も自分で確かめていない前提はいくつあるだろう。
そして、もし疑問を持った瞬間があったとしても、それを「考えすぎだ」「現実的じゃない」と自分で打ち消してこなかっただろうか。
疑うことをやめたのは、誰かに禁止されたからではない。疑うより、従ったほうが楽で、摩擦が少なく、「正しい側」にいられたからだ。
その結果、私たちは自由を得たのではなく、選択肢の存在自体を忘れるようになった。不自由さとは、鎖がある状態ではない。鎖が見えなくなった状態のことだ。
「嘘を見抜く」前に、「疑える構造」を取り戻すために
構造録・第2章「嘘と真実」は、何かを暴露したり、陰謀を告発するためのものではない。
この章が扱うのは、なぜ私たちは疑う力を持てなかったのか。その構造そのものだ。嘘は、誰かがつくから広がるのではない。疑わなくても成立する環境で、自然に増殖する。
もしあなたが「自分は何も考えてこなかったのかもしれない」と少しでも感じたなら、それは思考が止まった証拠ではない。思考が、今まさに再起動し始めた証拠だ。
構造録・第2章では、「真実とは何か」ではなく、「真実だと思わされる仕組み」を解体していく。疑える視点を、もう一度、自分の手に取り戻したいなら、続きを読んでほしい。
