悪意がない人が一番被害を広げる理由|善意が加担に変わる構造
誰も悪いことをしようとしていなかった。むしろ、みんな「良かれと思って」動いていたはずだった。それなのに、気づけば状況は悪化し、傷つく人が増え、後戻りできないところまで来てしまった──そんな経験はないだろうか。
問題が起きたあと、よく聞く言葉がある。「悪意はなかった」「そんなつもりじゃなかった」「誰かを傷つける気はなかった」。
確かに、それは本当なのかもしれない。だが、悪意がなかったという事実と、被害が広がったという結果は、同時に存在している。
ここに、私たちが普段あまり言葉にしない違和感がある。悪意がある人より、悪意がない人のほうが、なぜか大きな被害を生むことがある。それは本当に偶然なのだろうか。
Contents
悪意がないなら仕方ないというよくある説明
この現象は、たいてい次のように説明される。
・悪意のある人が一番危険
・問題は一部の「悪い人」が起こす
・善意の人は基本的に安全
・悪意がなければ責任は軽い
だからこそ、私たちは無意識にこう考える。
・「悪意がない人を責めるのは酷だ」
・「善意の人まで疑ったら、世の中がギスギスする」
この考え方は、一見とても人間的で、優しさがある。実際、多くの場面でこの前提が採用されている。
だが、その結果どうなるか。問題が起きても、悪意のない人は免責される。行動の結果よりも、動機の純粋さが重視される。
ここまでは、よくある話だ。だが、この説明だけでは、どうしても説明できない現象が残る。
なぜ止められなかったのか
それは、被害が拡大している最中、誰も止めなかったという事実だ。悪意のある人物がいたなら、わかりやすい。警戒され、監視され、排除される可能性がある。
だが、悪意のない人は違う。疑われない。止められない。「きっと良い人だから」という前提で、行動が素通りする。結果として、こうした言葉が飛び交う。
・「あの人は悪い人じゃないから」
・「善意でやっているんだから」
・「指摘するほどのことじゃない」
その間にも、被害は静かに積み重なっていく。しかも厄介なのは、誰も自分を加害者だと思っていないことだ。
後になって問題が表面化すると、こう言われる。「まさか、そんな影響があるなんて思わなかった」、「結果論で言われても困る」と。
だが本当に問題なのは、予測できなかったことではない。誰も判断を引き受けなかったことそのものだ。このズレは、「性格」や「善悪意識」では説明できない。ここから先は、別の見方が必要になる。——それが、「構造」という視点だ。
問題は「人」ではなく「構造」にある
ここで視点を切り替える必要がある。問題は「悪意のある人がいるかどうか」ではない。悪意がなくても、被害が拡大してしまう配置そのものに目を向けなければならない。
多くの人は、行動を評価するとき「動機」を基準にする。善意か、悪意か。その人は良い人か、悪い人か。
だが、現実で被害が広がるかどうかを決めているのは、人の内面よりも、判断と責任がどこに置かれているかという構造だ。
悪意がない人が中心にいる場では、誰も警戒しない。誰も止めない。誰も「それは違う」と言わない。
なぜなら、そこには「この人は善意だから大丈夫」という暗黙の免罪符が存在するからだ。結果として起きるのは、判断の不在、責任の空白、そして被害の拡大。
ここで重要なのは、誰も悪くなくても、構造は機能してしまうという事実だ。悪意がないことは、安全の証明ではない。むしろ、構造の中では「最も疑われない立場」こそが、最も影響力を持つことがある。
この章が扱うのは、善人批判ではない。善意が無防備に配置されたとき、何が起きるのかという構造の話である。
「悪意なき拡大」が生まれる構造
ここで、構造として整理してみよう。悪意なき被害拡大の基本構造は下記の通りだ。
善意の人物が中心に立つ
↓
「疑う必要がない」という前提が共有される
↓
判断・検証・異議が出にくくなる
↓
問題が見過ごされる・先送りされる
↓
被害が静かに蓄積する
↓
臨界点で一気に表面化する
この構造の特徴は、どの段階にも明確な悪意が存在しないことだ。むしろ、全員がこう思っている。
・良い人だから任せていい
・善意でやっているから口出ししない
・波風を立てるほうが悪い
ここで起きているのは、善意が「判断停止装置」として機能している状態である。悪意がある人物なら、人は警戒し、チェックし、対抗する。
だが、善意の人物は違う。信頼される。任される。異議を唱える側が「冷たい人」になる。結果として、最もブレーキがかからない立場が生まれる。
さらに重要なのは、この構造にいる人自身が、「自分は被害を広げている」という自覚を持ちにくい点だ。なぜなら、本人の中では「誰かを助けたい」、「場を良くしたい」、「争いを避けたい」という動機しか見えていないからだ。
しかし構造的には、判断を止め、責任を宙吊りにし、結果として問題を温存・拡大させている。
これは意地悪な言い方をすれば、悪意よりも扱いやすい状態とも言える。疑われず、止められず、自分は正しいと信じたまま進めてしまうからだ。
この章で明らかにしたいのは、「善意が悪になる」という単純な話ではない。善意が、判断を引き受けない、責任を負わない、結果から距離を取るといった条件と結びついたとき、最も大きな被害を生む構造になるという事実である。
次に問われるのは、「では、自分はどこに立っているのか?」だ。
「悪気はなかった自分」は、どこに立っていたか
ここで、自分の過去の行動を思い出してほしい。誰かが傷ついている場面で、「まあ、あの人も悪気はないし」、「そこまで責めるのはかわいそう」と思って、何もしなかったことはなかっただろうか。
その判断は、誰を守っただろう。加害した側か、傷ついた側か。それとも、波風を立てたくなかった自分自身か。
悪意がない人は、自分を「安全な存在」だと思いやすい。だからこそ、自分の立ち位置を確認しない。だが現実では、何もしなかったこと自体が、被害の継続を許可している場合がある。
「知らなかった」、「つもりじゃなかった」、「そんな大ごとになるとは思わなかった」といった言葉の裏で、状況は進行し続ける。
もし今、誰かの苦しさを見て見ぬふりした記憶、正論を言う人を「空気が読めない」と感じた経験、事なかれ主義を選んだ場面が思い当たるなら、それは責めるための材料じゃない。自分がどの構造に立っていたかを知るための問いだ。
問題は「悪い人」ではなく、加速する配置にある
構造録 第3章「善悪と中庸」が扱っているのは、「悪意のある人間を告発する話」じゃない。
むしろ逆だ。一番危険なのは、善良で、責任を感じず、立場を自覚しない人間が大量に存在する構造。悪意がないことは、免罪符にならない。行動しなかったことは、無関係を意味しない。
この章では、
・なぜ善意が被害を拡大するのか
・なぜ「何もしていない人」が最も安全な位置にいるのか
・なぜその安全が、他人の消耗の上に成り立つのか
を、感情論ではなく配置の問題として解体している。もし、「自分は悪くないはずなのに、なぜ後味が悪いのか」と感じたことがあるなら、それは感覚が正しい。
必要なのは自己弁護じゃない。自分が立っている場所を、構造として理解する視点だ。構造録 第3章「善悪と中庸」は、その視点を与えるためにある。
