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1章

小説録1章2話「ハートを喰うもの」【無料】

一. 蛇の先にいた者

木の椅子いすに腰かけていたのは、光を受けると新緑に揺らめく、黒緑の髪を持つ一人の女性だった。

白いブラウスに、茶色の短パン。 肩には緑のカーディガンを羽織はおっている。 どこか森の奥から抜け出してきたような色彩なのに、その佇たたずまいには不思議なほど街の景色が馴染んでいた。

店の看板には、小さく「STN」と書かれていた。

喫茶スペースの周囲には、古書や見慣れない品々が並んでいる。

だが、外から見れば、そこはただの古びた喫茶店にしか見えない。 壁も床も年季が入り、テーブルも椅子も使い込まれている。 店の奥では、年老いたマスターが無言のまま、コーヒーのマグカップを布で拭いていた。

それにしても、蒼真そうまには腑ふに落ちなかった。

ここは自分の生活圏からそう遠くない場所のはずだ。 何度も通った道の近くだ。 にもかかわらず、こんな店があることを、蒼真は今日まで一度も知らなかった。

まるで、昨日までは存在していなかったかのように。

新緑色の髪の女性に声をかけられた瞬間、蒼真は息を呑んだ。

見覚えがあった。 夢の中で、自分と蛇を救ってくれた女性。 あの異様な夢の中で、天使のような存在と対峙たいじしていた女性が、いま目の前にいる。

これは夢なのか。 それとも、現実なのか。

「あの……あなたは。昨日、俺と蛇を助けてくれた……」

蒼真が声を絞り出すと、女性は何も答えず、ただ蒼真の瞳をじっと見つめた。

その視線は、顔を見ているというより、もっと奥の何かを覗き込んでいるようだった。 瞳の奥に残った火種。 あるいは、まだ消えきっていない何か。

しばらくして、女性は静かに言った。

「君は、何も知らないまま、あの蛇の前に立った。」

「蛇……。」

蒼真が言いかけた、そのときだった。 女性の肩にかかっていた影が、ゆっくりと動いた。 細い身体がするりと肩から腕へ移動し、蒼真の前に姿を現す。

蛇だった。

蒼真はすぐに気づいた。

昨日、自分が庇かばった蛇だ。

目の位置に、あのとき見た傷がある。

蛇もまた、蒼真をじっと見つめていた。 黒く濡れた瞳の奥に、ただの動物とは思えない意思の光が宿っている。

「貴様からは、内から湧き上がる灯火ともしびを感じる」

「え?」

蒼真は硬直した。

「蛇が喋った……。一体、なんで……」

その瞬間、蛇の身体が淡く光った。

細長い輪郭がほどけるように崩れ、光の粒が空中で渦を巻く。 蛇の姿はみるみるうちに小さな人影へと変化していった。

現れたのは、10歳くらいの少女だった。

紫色の髪。 魔術師のような装束。 どこか偉そうに胸を張るその姿は、見た目だけなら完全に子どもである。

少女は腰に手を当て、堂々と宣言した。

「我が名はオティス。人類の神じゃ!」

その瞬間、店内の音が消えた。

カップを拭く布の音も、どこか遠くで鳴っていたはずの時計の針も、空気の揺らぎさえも止まったように感じた。

蒼真は数秒、少女を見つめた。

そして、言った。

「神?」

「そうじゃとも、我は神なり!」

「その割には随分と弱々しかったな。」

オティスは固まった。

完全に、固まった。

黒緑色の髪の女性は、少しニヤけた。

「確かに。その意見には賛同だわ。」

「ぬ……」

オティスは口を開けたまま、何も言い返せなかった。

やがて彼女は、しょんぼりと肩を落とし、カフェの端の方へ移動した。 壁際かべぎわの椅子に腰を下ろし、膝を抱えて小さくなっている。

神を名乗ったにしては、あまりにも打たれ弱かった。

蒼真は頭を抱えたくなった。

「あんたに聞きたい」

蒼真は視線を女性へ戻した。

「君は一体? あの蛇から姿を変えたこの女の子も一体なんなんだ? それに、このカフェはもとからなかったはずだ。」

女性は答えなかった。

ただ、口元に人差し指を当てる。 静かに、という合図だった。

「いずれわかるよ。よかったら、ついてこい。」

「ついてくるって、どこへ?」

「昨日、君が見たあの世界のこと。気になるんでしょ。」

「あの世界って、また、化け物の世界に?」

「もちろん、どっちでもいいよ。でも、ここまで、蛇を追ってきたんだよね?」

蒼真はアルシアを見た。

納得したわけではない。

だが、ここまで追ってきたのは自分だった。

「……分かった」

「せめて名前くらいは……。君の名前は?」

「私の名は、セルペンドラ=アルシア」

「アルシア……さん。俺の名前は、もう知ってるんだよな?」

「アルシアでいい。十三鬼蒼真とさき そうま。」

「じゃあ、俺も蒼真で。」

すると、端の席で落ち込んでいたはずのオティスが、すかさず顔を上げた。

「我が名は、神でよい」

「あんたは蛇女だな」

「誰が蛇女じゃ。オティス様と呼びたまえ。」

オティスは椅子から立ち上がり、頬ほおを膨らませた。

「オティス様? 蛇女でよくないか。」

「ちゃんと名前を呼ぶのじゃ。」

「神はそんなことにムキになるのか。偏狭へんきょうだな」

「うるさいっ……!」

オティスは再び言葉を失った。

アルシアはそのやり取りを横目で見ていたが、やがて蒼真の方へ向き直った。

「蒼真、目を閉じて」

「え? 何をする?」

「それは、自身の目で確かめたらいい。」

蒼真はアルシアを数秒見つめる。

「……危ないことは?」

「ある。」

「そこは否定しろよ」

蒼真は一瞬ためらったが、ここまで来てしまった以上、引き返す理由もなかった。 半信半疑のまま、蒼真も目を閉じる。 アルシア、オティスも、静かに目を閉じた。

「深く、深く呼吸をして」

アルシアの声は、店内の空気に溶けるように響いた。

蒼真は言われた通り、ゆっくりと息を吸い、吐いた。

「暗闇の中で、透明のはしごを下ることを想像して」

まぶたの裏に広がる暗闇。

その中に、蒼真は透明なはしごを思い浮かべた。 足元も、手をかける場所も、はっきりとは見えない。 だが、そこにあると信じれば、たしかに指先に冷たい感触が生まれるような気がした。

「息を吐きながら一つ下り、息を吸って、じっとする。それを繰り返して」

蒼真は、暗闇の中で透明のはしごを下り始めた。

一段。

また一段。

息を吐くたびに、身体の重さが現実から少しずつ離れていく。 喫茶店の椅子に座っている感覚が薄れ、代わりに、胸の奥に沈んでいくような奇妙な感覚が広がった。

遠くで、アルシアの声がした。

「オティス、お願い」

その瞬間だった。

オティスの身体が光を放った。

小さな少女の輪郭りんかくから、まばゆい光が溢あふれ出す。 光は瞬く間に店内を満たし、壁も、テーブルも、椅子も、年老いたマスターの姿さえも白く塗りつぶしていった。

STNのショップ全体が、光の中に沈んでいく。

蒼真は反射的に目を開けようとした。

だが、もう遅かった。

あたりは、まばゆい光に包まれていた。

二. 喰われるハート

光が薄れていく。

まぶたの裏を焼くような白が、ゆっくりと遠ざかっていった。 蒼真は恐る恐る目を開ける。

そこは、京都駅だった。

だが、普段の京都駅ではない。

蒼真たちは、駅ビルの屋上に立っていた。 空は青く、風は冷たい。 けれど、足元の床はどこか透き通っていて、その遥か下には、ホームと改札を行き交う人々の姿が透けて見えていた。

電車の到着を知らせる音。 改札を抜ける電子音。 人々の靴音。 ざわめき。

それらが、遠く水の底から響いてくるように、くぐもって聞こえる。

「ここは、京都駅の屋上……」

蒼真は呟いた。

だが、次の瞬間、言葉が喉で止まった。

「って、なんだこれは……」

屋上から下を見下ろした蒼真の背筋に、冷たいものが走った。

通勤途中の人々が、無数にいた。

スーツ姿の会社員。 疲れた顔で階段を上る人。 スマホを見つめたまま歩く人。

誰かに電話口で怒鳴っている上司らしき男。 無表情の母親。 眠そうに鞄を抱えた学生。 改札へ急ぐ人々。

一見すれば、それはただの朝の駅だった。

誰もが先を急ぎ、誰もが何かに追われている。 日常と呼ばれる光景。 何の変哲へんてつもない、見慣れた世界。

だが、その日常の裏側に、異様なものが張りついていた。

黒い影のような霊体が、多くの人を蝕むしばんでいるようだった。 そして、京都駅の上空にもその謎の霊体は舞っていた。

胸に爪を立てているものがいた。 背中に張りつき、耳元で何かを囁いているものもいた。 口元から糸のようなものを伸ばし、何かを吸い上げているものもいる。

人々は気づいていない。

心臓に黒いものを突き立てられながら、なおも改札へ向かい、電車を待ち、スマホを見て、誰かに頭を下げている。

昨日夢の中で見たビジョンにいた化け物と一緒だった。 ここでは無数に人間へ取り憑とりついている。

「……これは、あの時の……。」

蒼真が視線を巡らせると、何事もなさそうに歩いている人にもついていたり、忙しい人にもついていた。

そして、光のようなものを放つ人にはついていなかった。

光の輝きが強い人に対して、幽体は干渉できないようだった。 近づこうとしても、弾かれるように離れていく。 まるで、まだそこには踏み込めない境界があるかのようだった。

「さてさて」

隣で、オティスが小さく息を吐いた。

先ほどまで偉そうに胸を張っていた幼女の顔から、ふざけた色が消えている。

「相変わらず京都はえらいこっちゃな。建物そのものに巣を張っておるようだ。」

その声は、幼い姿に似合わないほど低く、重かった。

「この光景は一体……。多くの大人に取り憑いているのはなんだ……」

「ハートを奪う幽体。」

オティスが答えた。

「ハート?」

「社会に馴染むほど、人はハートを差し出しやすくなる。」

その言葉を聞いた瞬間、蒼真の中で何かが引っかかった。

「馴染むって?」

「社会適応者とでも言おうか。」

「それってよくないのか?」

「別に悪いわけじゃない。」

アルシアが遮った。

「そもそも適応しないと、生きていけない。」

「あいつにハートを差し出すと、社会に適応できるのか。」

「すべてがそうとも言えないが。」

オティスは足元を見下ろしたまま言った。

「人間の最も繊細で弱い部分。」

「てか、俺だって、社会に適応しようとしていた。でも、今は俺の体は取り憑かれていない。」

アルシアは答えた。

「それはわからない。隠れているかもしれないし、誰しもいつでも取り憑かれる可能性はある。」

「自分が一番理解しているのではないか?」

アルシアは蒼真の目を見つめる。

蒼真が自分の胸を見る。

そのとき、低い声が屋上の空気を切り裂いた。

「貴様ら、蛇の使いか?」

三. 秩序を名乗る者

声のした方へ、蒼真は振り向いた。

そこには、一人の男が立っていた。

太い眉を吊り上げた、強情ごうじょうそうな顔つきの男だった。 警察官のような制服を着ている。 だが、それは蒼真の知る警察の制服とはどこか違っていた。

黒を基調にした布地ぬのじには、見慣れない紋章もんしょうが刻まれている。 胸元には、剣と秤はかりを組み合わせたような徽章きしょう。 腰には拳銃と、短い小刀こがたなのようなものが下げられていた。

男の目は、まっすぐにオティスを捉えていた。

「ここか。蛇の遣い」

その声に、オティスの肩がびくりと跳ねた。

さっきまで偉そうに胸を張っていた幼女は、あっという間に蒼真とアルシアの後ろへ隠れた。 紫色の髪だけが、蒼真の脇から少しはみ出している。

「その子どもをこちらに渡してもらおうか。そいつは危険な存在だ。」

男は当然のように言った。

まるで、落とし物を拾いに来たとでも言うような口調だった。

アルシアの目が鋭くなる。

「何者だ。」

「国家秘密オカルト保安局こっかひみつおかるとほあんきょくだ。表の世界に害を与える異物を回収し、表の秩序を守るものと言えばわかりやすいか。」

その声音に、躊躇ちゅうちょはなかった。

男は腰の銃に手をかけた。

「悪魔に情なさけをかけるなと教わっている。抵抗するなら実力行使に移る。」

次の瞬間、銃声が屋上に響いた。

蒼真の身体が反射的にすくむ。

だが、アルシアは動じなかった。

目を閉じたまま、彼女の周囲に白銀色の光が広がる。 薄い膜のようなオーラが空気を震わせ、飛来した銃弾を弾いた。

金属音が連続して響き、弾丸が壁に衝突して床へ落ちる。

「今のは……」

蒼真は息を呑んだ。

銃弾が、止まった。

それも、アルシアはほとんど動いていない。

「蒼真」

アルシアは男から目を逸らさないまま言った。

「オティスを連れて、安全な場所へ」

蒼真は頷いた。

理解が追いついたわけではない。 だが、今ここで自分が立ち尽くしていても邪魔になるだけだということだけはわかった。

「行くぞ」

蒼真はオティスの手を掴んだ。

「お、おう」

オティスは蒼真に引かれるまま、アルシアの背後から離れた。

その瞬間、男が銃をしまい、小刀を抜いた。

黒い刃だった。 刃の表面には、薄い文字のようなものが浮かんでいる。 蒼真には読めなかったが、その文字は呼吸するように赤黒く明滅めいめつしていた。

男が地面を蹴る。

アルシアもまた、腰から短剣を抜いた。

刃と刃がぶつかり合う。

甲高い金属音が、屋上の空気を裂いた。

男の動きは、蒼真が知る人間の速度ではなかった。 足を踏み込んだと思った瞬間には、もうアルシアの懐ふところへ入り込んでいる。

だが、アルシアも同じだった。 短剣を返し、身体をひねり、男の斬撃ざんげきを紙一重でかわす。

刃が交差するたびに、空気の中に火花のような光が散った。

「蛇を庇いし者、なかなかやるな。」

男は笑みを浮かべた。

「お前の目的はなんだ。」

アルシアが低く呟いた。

「蛇の悪事から人間を守る……とでも言えばいいかな。」

その言葉を聞いた蒼真は、一瞬、妙な違和感を覚えた。

正義の味方のように聞こえた。

人を守る……。 秩序を守る……。

「その蛇が何を持ち出したか、お前は知っているのか」

アルシアは男を鋭い眼差しで見つめる。

「おおや、知っているよな。」

男はアルシアの反応を見て、淡々と語る。

「その一匹の蛇の代償として、何人死ぬか?」

アルシアは、火の海になった街をふと思い出した。

「我々は規則に従っている。個人の情で秩序を壊すべきではない。」

男の刃が、アルシアの頬をかすめた。

アルシアの手が止まる。

薄く、緑の光が散る。

「蛇を守ろうとする一人を切れば、百人が助かる。」

その言葉を聞いた瞬間、アルシアの空気が変わった。

ふと、彼女は目を閉じた。

次に開いたとき、その瞳には静かな怒りが宿っていた。 燃え上がる炎ではない。 氷の底に閉じ込められた火のような、深く、消えない怒りだった。

アルシアが踏み込んだ。

そこからの動きは、さらに速かった。

短剣が緑の軌跡を描く。 男の小刀を弾き、肩を狙い、喉元へ迫る。 男はそれを防ぎながら後退した。

だが、アルシアは逃がさない。

刃、蹴り、銃撃。

アルシアは一瞬で距離を変え、短剣の間合いから銃の間合いへ切り替えた。

乾いた銃声が響く。

男の脇腹に、緑の光弾が突き刺さった。

「ぐっ……!」

男の身体がわずかに揺れる。

しかし、倒れない。

男は傷口に手を当て、口の中で何かを呟いた。 すると、その身体から赤黒い気配が立ち上る。

気のようなものが高まり、銃弾を受けた傷口が、肉の内側から押し戻されるように塞がっていった。

「かなりの腕前のようだな。」

男は手についた光を振り払った。

アルシアは、静かに男を見つめる。

男は目を閉じた。 その唇が、蒼真には聞き取れない言葉を紡ぎ始める。 祈りのようであり、命令のようでもあった。

「現れよ、世界の秩序を守りし守護神よ」

四. 守護の刃

空気が軋きしんだ。 男の背後に、白い裂け目が生まれる。

そこから現れたのは、巨大な翼を持つ存在だった。 白く輝く翼。 硬質な光でできた鎧。 手には細長い刃を持っている。

蒼真の喉がひきつった。

見覚えがあった。

「あいつは……」

声が震えた。

「お前を殺そうとしていた天使」

蒼真の隣で、オティスが青ざめた。 オティスはその場で丸くなった。 小さな身体をさらに小さくして、両手で頭を抱えている。

「なんなんだよ、神なのになんでこんなひ弱なんだ……。」

蒼真は呆れるしかなかった。

だが、笑える状況ではなかった。

天使が、ゆっくりと蒼真たちの方へ顔を向ける。

その目には、慈悲じひの色がなかった。

「奪いし者に、魂を差し出した者よ」

天使の声が、空から降ってくるように響いた。

「汝なんじの魂を抉えぐり出し、天の秩序へ返納する。迷える魂は、神の蔵かみのきゅーぶへ回収される。汝らは供物くもつとなれ」

保安局の男が笑った。

「さて、この状況下でどうする?」

二つの影が、同時に動いた。

男が正面から斬り込む。 天使は空中へ舞い上がり、アルシアの背後へ回り込む。

アルシアは正面の攻撃を受け流し、身体を低く沈めた。 背後から突き出された天使の刃を、短剣で弾き飛ばす。

だが、二対一だった。

一撃を防げば、もう一撃が来る。 正面を見れば、背後が狙われる。 背後を払えば、男の刃が迫せまる。

アルシアはかわしている。 耐えている。

だが、蒼真にもわかった。

押されている。

「俺も戦う」

蒼真は拳を握った。

「アルシア一人だと無理だ」

オティスが、顔を上げた。

「おぬしには無理じゃ」

「なんで」

「あやつらの速さも、刃も、今のおぬしには見えておらぬ。もう、終わりじゃ……。ここでわれもおぬしも殺されるのじゃ……」

「どうせ殺されるなら、一か八かやるしかないだろ」

蒼真はそう言って、足を踏み出した。

そして、蒼真は、保安局の男の後ろに入り、思いっきり殴りにかかった。

保安局の男が蒼真の方を向いた瞬間、その一瞬で、アルシアが天使の斬撃をかわして、天使に攻撃を加えた。

その一方で、保安局の男は蒼真の攻撃を受け止めて、そのまま蒼真を殴り、蒼真は地面に転がった。

そして、保安局の男が蒼真の方向へ歩み出そうとすると、アルシアが攻撃を加えて、蒼真から引き離した。

速すぎる。

男の小刀も、アルシアの短剣も、天使の刃も、蒼真の目では追いきれない。 何かが光ったと思えば、次の瞬間には別の場所で火花が散っている。

身体が動かない。 足が震えていた。

アルシアを助けようと思ったのに。

アルシアに助けられてばかりではいられないと思った。 それなのに。

「俺は……」

蒼真は、震える拳を見下ろした。

「何も……できないのか」

その瞬間だった。

保安局の男の拳が、アルシアの腹部に叩き込まれた。

アルシアの身体がわずかに浮く。

その背後から、天使が刃を突き出した。

白い刃が、アルシアの脇腹を裂く。

「アルシア!」

蒼真が叫んだ。

アルシアは腕で脇腹を押さえた。 目を閉じ、切られた部位が光り始める。 すると、出血が弱まった。

けれど、顔色は明らかに悪かった。 呼吸が乱れている。 膝が、ほんの少し沈んでいる。

天使の視線が、蒼真へ向いた。

「貴様は、あの時の……」

その声に、蒼真の背筋が凍った。

天使がゆっくりと近づいてくる。

逃げろ。

頭ではそう思った。

だが、足が動かない。

天使が刃を振り上げる。

白い光が、蒼真の視界を埋めた。

殺される。

そう思った瞬間、屋上に、凄まじい風が吹き荒れた。

空気そのものが裂けるような音がした。

次の瞬間、天使の身体を、何かが貫いていた。

「――」

天使の動きが止まる。

保安局の男が目を見開いた。 男はすぐに守護神のもとへ駆け寄ろうとした。

だが、その足が止まる。

見上げた先に、一人の男が立っていた。

屋上の縁。 風の中。 黒い影のように。

「やっと見つけたぞ、保安局。」

その男は、保安局の男と天使を見下ろしていた。

五. 天使を奪う男

吐き捨てるように言った。

「レディ一人に対して、デカブツが二人とか、反吐へどが出るな。」

男は屋上の縁に立ち、保安局の男を見下ろしていた。

風に乱れた髪。 鋭い眼光がんこう。 肩に力が入っているようには見えないのに、その場の空気だけが明らかに変わっていた。

蒼真には、彼がいつ現れたのかさえわからなかった。

ただ、気づいたときには、天使の胸を何かが貫いていた。

白い翼が大きく震える。

天使の身体に亀裂が走った。 光でできた鎧が砕け、白い羽が灰のように崩れていく。

「あり得ぬ……」

天使がかすれた声を漏らした。

その巨体は、輪郭から少しずつほどけていった。 翼が消え、腕が消え、胸の中心から光が漏れ出す。

屋上の縁に立つ男は、片手を軽く掲げた。

その手の中に、小さなキューブがあった。

透明な結晶のようにも見える。 だが、内部には黒い線が幾重いくえにも走り、まるで小さな檻おりのようだった。

男が指先でキューブを弾く。

すると、天使から散っていた光が、渦を巻いてキューブへ吸い込まれていった。

白い光が、悲鳴のように震える。

次の瞬間、天使の姿は完全に消えた。

残ったのは、男の手の中で淡く光るキューブだけだった。

蒼真は男の手の中のキューブを見た。

さっき天使が口にした「神の蔵」という言葉が頭をよぎる。

「貴様……」

保安局の男が、初めて顔色を変えた。

「この俺様の守護天使が……消えただと……。」

その言葉を言い切る前に、アルシアが動いた。

緑の光が走る。

脇腹を負傷していたはずのアルシアが、短剣を握り直し、保安局の男へ斬り込んだ。

男は慌てて小刀を構える。

刃と刃が激突した。

「お前らのような裏切り者のせいで」

アルシアの声は低かった。

怒鳴っているわけではない。 だが、その一言には、長い時間をかけて押し殺してきた怒りが滲んでいた。

蒼真は、その姿に息を呑んだ。

蒼真はアルシアの横顔を見た。 いつもの静けさとは違った。 何があったのかは分からない。

ただ、その刃が自分やオティスのためだけに振るわれているのではないことだけは分かった。

「ちっ……!」

保安局の男が後退した。

アルシアの連撃に加え、屋上の縁に立つ男の存在が、完全に形勢を変えていた。

男は再びキューブを取り出した。

先ほど天使を吸い込んだものと同じ種類の、透明な檻。

それを手のひらの上で転がしながら、男は低く言った。

「懺悔ざんげの用意はできているか」

キューブが光り始める。

その光は、天使を閉じ込めたときよりもさらに強かった。 四角い輪郭から何本もの光の線が伸び、保安局の男を囲むように広がっていく。

逃げ場を塞ぐ檻。

蒼真にも、そう見えた。

「そう簡単に、捕まるかっての。」

男は目を見開き、聞き慣れない言葉を唱え始めた。

音というより、傷口から漏れ出す呪いのような響きだった。 蒼真には意味がわからない。 だが、その言葉が発せられた瞬間、足元の京都駅全体がざわめいた。

眼下のホーム。

改札。

通路。

そこにいた大人たちの胸元で、黒い幽体が一斉に反応した。

人々の身体が止まる。

歩いていた会社員が足を止めた。 スマホを見ていた人が、画面に視線を落としたまま固まった。 階段を上っていた人が、片足を宙に置いたまま動かなくなる。

まるで魂が抜けた人形のようだった。

次の瞬間、彼らの胸元から淡い光が浮き上がった。

魂だった。

黒い幽体に絡め取られた魂が、糸で引きずり出されるように、現実の京都駅から屋上の霊的空間へ浮かび上がってくる。

「なっ……」

蒼真は言葉を失った。

無数の魂が、屋上の周囲を埋め尽くしていく。

人の形を保っているものもあれば、輪郭が崩れ、白い靄もやのようになっているものもある。 そのどれにも黒い幽体が絡みつき、操り糸のように引いていた。

保安局の男は、その魂の群れを盾にした。

アルシアの刃が止まった。

キューブの光も、一瞬だけ鈍る。

その隙を、男は逃さなかった。

魂の壁が一斉に膨れ上がり、蒼真たちの視界を覆った。 白い靄と黒い幽体が混じり合い、屋上全体を包み込む。

蒼真は腕で顔を庇かばった。

耳元で、誰かの呻うめき声が聞こえる。

泣き声。

怒鳴り声。

諦めたようなため息。

誰かに謝り続ける声。

それらが一度に押し寄せてきた。

「くそっ……!」

屋上の縁に立っていた男が舌打ちする。

だが、保安局の男の姿は、すでに魂の壁の向こうへ消えていた。

アルシアは短剣を下ろし、片手を前へ掲げた。

目を閉じ、その掌から、淡い緑の光が広がっていく。

光は波のように屋上を満たし、魂に絡みついた黒い幽体を押し剥がしていった。 幽体たちは甲高い悲鳴のような音を立て、遠くへ弾き飛ばされる。

白く浮かんでいた魂たちの輪郭が、少しずつ安定していく。

そして、光が収まった。

屋上に浮かんでいた魂たちは、糸が切れたように、それぞれの肉体へ戻っていった。

眼下のホームで、人々が一斉に我に返る。

「あれ……俺、何してたんだ?」

「今、一瞬、意識が飛んで……」

ざわめきが戻る。

電車の音も、改札の電子音も、人々の靴音も、何事もなかったかのように再び動き出した。

だが、蒼真の胸の奥だけは、元に戻らなかった。

「アルシア、大丈夫か?」

蒼真は駆け寄った。

アルシアは脇腹に手を当てたまま、静かに頷いた。 指の隙間から漏れていた緑の光は、もうほとんど消えている。

「ええ。傷は癒えているから」

そう言って、アルシアは屋上の縁に立つ男へ視線を向けた。

「彼は?」

蒼真も、その男を見た。

男はキューブを手の中で消し、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

蒼真は、まだ震えている自分の手を見た。

握ってみても、震えは止まらなかった。

男が蒼真の前で足を止める。

鋭い目が、蒼真を上から下まで見る。

そして、男は低く言った。

「……面倒なことになったな、新入り」

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