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1章

小説録1章1話「蛇を守った男」【無料】

一. 悪魔と呼ばれた王

街の至る場所で炎が上がっていた。石造りの建物は崩れ、窓という窓から火が噴き出していた。

かつて人々が行き交った大通りには、荷車が横倒しになり、割れた硝子がらすと瓦礫がれきが散らばっている。

瓦礫の下敷きになって、「助けて」と叫ぶ声。

「痛いよ」と幼い子どもが泣き叫び、母親が血まみれになりながら、「大丈夫、大丈夫だから」と語りかけ、助けようとしていた。

怒号どごうや叫び声が飛び交う。

その間にも、航空機からの爆撃は終わることがなかった。かつては繁栄していた街が、一瞬で火の海になっていた。

空では、無数の戦闘機が黒い影となって旋回せんかいしていた。

雲を裂き、火の尾を引き、機銃きじゅうの光を地上へ降らせていく。

爆発のたびに街の一角が白く瞬またたき、次の瞬間には黒煙が立ち上った。

二人乗りの戦闘機の中で、ある航空兵が隣の航空兵に語る。

「俺の両親は、ヴァルハイト軍に殺された」

「……終わらせよう」

そう言って、戦闘機は街へ攻撃を加えた。

街が壊されていく現場を呆然ぼうぜんと見ていた1人の女がいた。

長い髪は煤すすに汚れ、頬ほおには血とも涙ともつかない跡が残っている。

彼女は逃げる人々の流れに背を向け、ただ、滅びゆく街を見つめていた。

膝ひざが震えていた。

指先が冷たかった。

けれど、動けなかった。

「なぜだ…。」

走馬灯そうまとうのように、過去の記憶が転々と蘇る。

「奴らのせいで、我々は屈辱的くつじょくてきな生活を強いられた。私は国家を変える。かつて繁栄していたヴァルハイトを取り戻そう。」

「国を支えるみんなのおかげだ。我々の文明は再び取り戻された。」

歓喜かんきに溢れる声。

そして、国民の皆が必死に国のために率先して働いていた。

「…。」

あの時が、遠い昔のことのようだった。

そんな時に、その女の従者じゅうしゃが来た。

「アルシア様、王がお呼びです。」

「わかった。」

女は頷き、その従者と共に、その場を立ち去った。

ヴァルハイト城から離れた場所。

ヴァルハイト城はすでに陥落かんらくしており、王とその幹部は、少し離れた建物へと移動していた。

女は部屋の中に入った。

そこには、王、王妃おうひ、そして、その幹部と護衛の従者が数名いた。

「アドラフ様。参りました。」

「アルシア。」

「なんでございましょうか。マスター。」

「ヴァルハイトの城、および、中心街は陥落した。そして、同盟国であったナポレアも代表が捕縛ほばくされたそうだ。」

アルシアは、何かを悟ったように、下を向く。

「お前に最後の命令を下す。」

「最後…、何をおっしゃるのですか。」

「お前は生き延びろ。」

アルシアの顔が歪む。

「多くの民が犠牲となった。負ければ、また喰われる。そんな社会にまた戻れと。」

「アルシア。」

「ふざけないでください。きっと何か方法があるはずです。」

「私が死ねば、これ以上の犠牲は止まる。神々の意志だ。」

一瞬、言葉の意味が分からなかった。

いや、分かりたくなかった。

アルシアは、拳を握る。涙が流れ落ちる。

「お諦めになるというのですか。この戦いを。」

アドラフは静かに目を閉じた。

「情に流されるでない。」

「神は正しかったのではないのですか。」

その時、従者が入ってきた。

「追っ手がこちらへ来ている模様です。」

アドラフはこの部屋にいる幹部および従者たちに語りかけた。

「みんな、ここまでありがとう。戦いはこれで終わりではない。この戦いは、未来の世代が継ぐ。」

幹部と従者は言葉に詰まる。

「君たちは私の誇りである。共に国家繁栄の道を歩んでくれた。感謝する。」

そして、幹部と従者はその場を後にする。

アルシアはその場でひざまずき、涙を垂らす。

「みんな、あなたを信じてきたのに。あなたは。」

アドラフは無言でその場を去っていく。

そして、アドラフが向かった先の白い建物では、妻がいた。

その建物にアドラフが入る。

敵の戦車が白い建物に近寄っていた。

アドラフは妻の瞳を見た。

「お前は良いのか。」

「あなたが最初の工場に灯りが戻った夜、子どもみたいに笑っていたのを覚えています」

アドラフは、スイッチへ手を置いた。

「ありがとう。」

アドラフはスイッチを押した。

その時、その建物は突然巨大な爆炎ばくえんに包まれた。

激しい爆風が辺りを吹き飛ばし、炎が上がった。

ヴァルハイトの陥落とアドラフの死は、すぐに世界へと流された。

画面の中で、整った声の報道官が告げる。

『大戦争の悪魔と言われた独裁者、アドラフ・ヒエラは爆発により死んだとのことです。これにより、我々に再び平和が戻りました』

人々は歓声を上げた。

「虐殺の悪魔が消えた。我々はついに決着をつけたぞ!」

「これで平和が訪れる。」

「これで戦争はひと段落だよ。」

壊れたヴァルハイトの廃墟はいきょを見ていたアルシアは、一粒の涙をこぼした。

唇を噛み締め、拳を握った。

「私は…。」

アルシアはローブを深く被り、その場を離れた。

二. 値段の向こう側

携帯の音が鳴る。案件の通知が来た。

「あーあ、面倒くさい。電話入れてふっかけてキャンセルしよう。」

しかし、電話は繋がらなかった。

「ちっ、なんで出ないんだよ。面倒くさい。」

仕方なしに男は車のエンジンをかけて出発した。

雨が荒れていた。

マンションの一室の前では、1人の女が少しイラつきながら、男に語りかけた。

「さっき来た鍵屋のおっさん、鍵開けるのに、7万もかかるとか言っていたのよ。ホームページには安いとか書いていたくせに。」

男は鍵穴と扉の様子を見た。

そして、女性を見て一瞬見惚れる。

眉を寄せて文句を言っているのに、目だけはまっすぐこちらを見ている。

「わかった。君なら2万くらいならいける?」

男は女の目をじっと見つめる。

「さっきの人よりは安いけど、それでも高いわ。私の2日分の給料じゃん。これじゃ、当分もやし生活だって…。」

「それは困るな。なら、1万5千円。」

「それならいいわ、やって。」

身分証明書の確認や事前の必要な書類のやり取りが終わる。

そして、男はアタッシュケースを開く。

そこには、工具が雑に入っていた。

特殊工具、カメラ、ナット、ドリルなど…。とにかく雑だった。

男はどこに何があるのかを把握しているようで、必要なものを取り出していく。

女は興味深そうに作業を見る。

男は扉の覗き穴のぞきあなをくるくると回し始めた。

そして、覗き穴と鍵穴の距離を巻き尺で測り、鍵を開けるために、棒状の工具を組み合わせていく。

「あの…、すぐ開くの?」

「一部例外を除けば。」

そして、工具を差し込んだ。手慣れた手つきだ。

すると、男はカメラを見ながら、目を細めた。

その瞬間、工具を変え始めた。

「何かあったの?」

「つまみのボタンを押さないと開けない。」

「さっきの人もなんかそう言っていたっけ。てか、それって値段上がるやつじゃ。」

「いいよ。」

そう言って、男は黙々と作業をする。

「え。」

男は黙々と工具を組み立てていき、再び覗き穴から工具を通す。

「本当にいいの?難しいんでしょ?」

手で工具の先端を調整しながら、カメラを覗き込み、そして、解錠かいじょうした。

「開いた。すごい。ありがとうございます!」

その様子を木の影から何者かが見つめていた。

そして、女は男にお金を支払った。

「あの、あなたの会社だと、本当はいくらなの?」

「7万5000円。」

女は鍵開けの男をじっと見る。

「いいの?怒られたりしないの?」

「怒られるだろうな。」

そして、男は広げていた工具を片付ける。

「もし今度依頼するときは、あなたに頼むわ。名刺ちょうだい!」

「やめてくれ。」

「なんで?」

男は少し黙る。何かを言いたそうなようにも見えた。

「余計な仕事増やさないでほしい。」

そう言って、男はその場を後にした。

女は男が立ち去る様子を眺めていた。

男は後を振り返る。

茂みしげみが一瞬動いたように感じた。

何かに見られているような気がしたが、そこには誰もいなかった。

三. 正しさの値段

その数時間後、蒼真そうまは会社のフロアに立っていた。

名前、売上、客単価、成約数せいやくすう。

会社の代表がいた。

代表の男が語りかける。

「今月のトップは、田嶋部長だ。」

周囲の社員たちが拍手する。

その様子を男はじっと遠くの方から見つめていた。

代表の男は語り始めた。

「田嶋は入社以来、当社の売上にずっと貢献してくれている。客単価8万円、月の売上もトップクラス。彼には、報酬として100万円のボーナスを与えよう。」

代表は田嶋に握手した。

「我が社では、できる社員が報われる会社でありたい。そして、この業界でトップを目指します。なお、田嶋には出来ないスタッフの教育にも力を入れてもらうことになった。田嶋、一言どうぞ。」

田嶋は語り始める。

「私はこの会社に入って本当に良かったと思っています。成果を出せば、それだけ選べる人生が増える。住む場所も、乗る車も、家族にしてやれることもだ。代表はその環境を作ってくださっている。ぜひ、自分自身と会社の発展のために、君たちにも尽力じんりょくしてもらいたい。」

その時、田嶋は、その様子を遠くから眺める男と眼が合う。

そして、男が帰ろうとしていた時に、代表が声をかける。

「おい。十三鬼とさき。」

十三鬼は振り返る。

代表が近寄ってきた。

「なんだ。あの成績は。」

十三鬼は代表から目を逸らした。

「なんで、トップと10倍近くの差があるんだ?」

「君一人の善意で価格を崩されると、次に正規料金を提示する社員が詐欺師に見えるんだ」

十三鬼は、目に涙が溢れそうになるも、涙は見せなかった。

しかし、目は赤くなっていた。

代表はそのままその場を後にする。

その時、田嶋が後ろから現れる。

「お前はお人好しすぎるんだよ。だけど、この会社じゃ、そんなマインドじゃ稼げない。あの成績じゃあ、最低賃金だ。お前はそれでいいのか?俺がやり方をレクチャーしてやろうか。」

その時、誰かが小さく笑った。

蒼真は、返事をしようとするも、喉が詰まった感じになる。

それでも拳を握りながら、田嶋を睨む。

「おい、なんか言ったらどうなんだ?」

十三鬼は黙ったまま、下を向く。

「お前、先週も値引いたろ」

「……」

「怒ってるんじゃない。困るんだよ。技術を教えるのにも金はかかる。車や工具、広告も無料じゃない。客の心なんざに寄り添って満足して、そのツケをこの会社に回すなよ。」

「別に、僕は、客が喜ぶことを考えただけです。」

田嶋は十三鬼と眼を合わせ、腕組みをした。

「甘いな。お前は誰を第一に考えないといけない?給料を支払っているのは誰だ?」

「……赤字じゃない。」

「何?」

「自分の給料分は稼いでる。一万五千で開けられる鍵に、七万は取れない。」

「その差額で会社を回してるんだろうが。」

田嶋は言い返すも、十三鬼は背を向け、その場を後にした。

その時、田嶋が語りかける。

「お前はもっと現実を見た方がいい。綺麗事きれいごとで自由が手に入るほど、世の中は単純じゃない。てか、お前、まだ勤務時間だぞ。」

一瞬止まる。

しかし、十三鬼はそのまま走ってその場を後にした。

田嶋は十三鬼が去っていく様子を見ていた。

四. 帰る場所

会社を出ると、外の空気は妙に冷たかった。

ビルの自動ドアが閉まる。

蛍光灯の白い光と、誰かの笑い声が遠ざかっていく。

蒼真はそのままただ無心に帰り道を歩いていく。

スーパーに立ち寄る。

店内は明るい照明で照らされていた。

そこには、値上げの札の貼られた商品がたくさんあった。

蒼真は、魚コーナーに行くと、そこには、たくさんのお刺身が並べられていた。

蒼真は手に取ろうとするも、手を止めた。

もやしと豆腐、サバの缶詰を買い物かごに入れて、そのまま店を後にした。

家の中に帰ると、蒼真は自分の飯より先に、飼っているヒョウモントカゲモドキのケースを覗いた。

霧吹きをする。温度計を見る。餌皿を直す。

ケースの中のレオパが、餌皿の脇から蒼真を見ていた。

そして、ベッドに横になり、息をついた。

横になると、学生時代の写真や卒業証書、仕事でもらった色紙が視界に入った。

床には本が積まれ、机の上には資料が重なり、壁際には段ボールがいくつも置かれている。

リサーチの記録や書き込みだらけの参考書。

蒼真は天井てんじょうを見上げた。

真っ白な天井。

「クソ野郎。」

微かな声でつぶやいた。

数秒後、蒼真は勢いよく身体を起こした。

パソコンの前に座った。

画面の光が顔を照らす。

指がキーボードの上を動く。

ただひたすらキーボードを叩く。

ブラウザには、いくつもの統計資料と論文が表示されていた。

社会心理学、賃金統計、企業行動に関する資料がいくつも開かれていた。

時計の針が進んでいく。

画面には次々と資料が開かれていた。

蒼真は一度だけ手を止めた。

それでも、またキーボードへ指を戻した。

だんだんと眼が疲れてきて、ベッドの上にバタンと倒れた。

その様子を窓から不審な生き物が見ていた。

十三鬼蒼真は深い眠りの中へ落ちていった。

五. 灰色の世界

ふと、目が覚めた。

眠っていたはずだった。

なのに、蒼真は床の上に立っていた。

「……?」

部屋は、自分の部屋だった。

散らかった本。

机の上の資料。

点いたままのパソコン。

壁に立てかけられた古い額縁がくぶち。

何も変わっていない。

けれど、何かが違った。

空気が重い。

耳の奥に、低い雑音のようなものがずっと響いている。

部屋の隅に溜まった影が、いつもより濃く見えた。

蒼真はゆっくりと窓へ向かった。

カーテンの隙間から、外を覗く。

「なんだ……?」

思わず声が漏れた。

「この世界は?」

そこに広がっていたのは、いつも見ている街のはずだった。

コンビニの看板。

向かいのマンション。

電柱。

道路。

歩道を歩く会社員や学生。

配置は何も変わっていない。

見慣れた景色だった。

なのに、空が違った。

空は灰色だった。

曇っているという程度ではない。

まるで巨大な灰の膜が世界全体を覆っているように、光が死んでいた。

その灰色の空の中央に、巨大なものが浮かんでいた。

立方体。

あまりにも巨大なキューブが、音もなく空中に存在している。

ビルよりも、雲よりも高い場所にありながら、なぜかはっきりと見えた。

表面には幾何学模様きかがくもようのような線が走り、時折、脈打つように鈍い光を放っている。

それは建造物にも、機械にも、神殿にも見えなかった。

ただ、見ているだけで胸の奥がざわついた。

そのとき、視界の下で何かが動いた。

歩道を歩く人々。

その胸に、奇妙なものが張り付いていた。

「……なんだ、あれ」

それは、何かの奇怪な生き物のようだった。

宇宙人なのだろうか。

半透明の皮膚。

細長い四肢しし。

不気味な生命体が人間の胸の辺りに張り付いている。

貼りつかれた人間たちは、何事もないように歩いている。

会社員はスマホを見ながら信号を待ち、学生はイヤホンをつけて笑い、老人はゆっくりと買い物袋を下げている。

誰も気づいていない。

自分の心臓に、あんなものが張り付いていることに。

さらに、空中にも同じものが浮いていた。

ふらふらと漂いながら、道行く人々を物色するように見下ろしている。

やがて一体が、若い男を見つけると、蜘蛛くものような動きで音もなく近づいていった。

蒼真は反射的に窓から離れた。

心臓が、嫌な音を立てている。

夢だ。

そう思おうとした。

だが、手のひらに汗がにじんでいる。

床の冷たさも、喉の渇きも、妙に現実的だった。

その時、蒼真が天井を見たときに、謎の生命体が張り付いていた。

蒼真と眼が合った時に、蒼真はひやっとして、部屋を飛び出し、ドアを叩きつけるように閉めた。

廊下の空気は冷たい。湿っている。

そして、かすかに腐ったような匂いがした。

階段を下り、通りに出る。

世界は、やはり変わっていた。

だが、通りを歩く多くの人間の胸には、あの化け物が貼りついている。

背中にぶら下がっている者もいた。

首筋に爪を立てている者もいた。

化け物の腹から伸びた細い管が、人間の胸へ沈み込んでいた。

管が脈を打つ。

貼り付かれた人間の表情が一瞬だけ抜け落ちる。

そして、普通に歩き出す。

そのときだった。

空中を漂ただよっていた一体と、目が合った。

黒い穴のような目。

ぞわりと背筋が冷えた。

「……」

謎の化け物が、首を傾かたむけるように身体を歪ゆがませた。

次の瞬間。

そいつは一直線に蒼真へ飛んできた。

「ッ!」

蒼真は反射的に走り出した。

背後で、薄気味悪い声が聞こえる。

笑い声にも、泣き声にも、機械音にも似ていた。

何かを真似しているのに、何一つ人間ではない声。

「なんなんだ、あれは!」

蒼真は叫びながら、路地へ飛び込んだ。

足音がやけに大きく響く。

心臓が痛いほど脈打つ。

後ろを振り返る余裕はなかった。

六. 裁きの天使

曲がり角を抜ける。

狭い通路を走る。

ゴミ置き場を飛び越え、濡れたアスファルトで滑りかけながら、それでも走った。

そのとき、声が聞こえた。

――助けて。

蒼真は足を止めかけた。

今のは、誰だ。

――助けて。

声はか細かった。

子どものようにも聞こえたし、老人のようにも聞こえた。

耳ではなく、頭の中に直接届いてくるような声だった。

蒼真は背後を振り返る。

化け物はまだ追ってきている。

距離はあるが、確実にこちらへ近づいていた。

曲がり角を抜けた瞬間、背後の気配が止まった。

振り返ると、追ってきた化け物は路地の奥で止まり、蒼真ではなく、その先の広場を見ていた。

それ以上近づこうとはしなかった。

だが、声は続いた。

――助けて。

蒼真は歯を食いしばった。

蒼真は逃げ道を一度見た。

次に、声のした方を見る。

「……くそ」

舌打ちして、そちらへ向かった。

声のする方へ走る。

曲がる。

また曲がる。

そのたびに声は近くなっていった。

やがて、開けた場所に出た。

そこは、普段なら小さな広場のはずだった。

だが今は、地面に黒い亀裂きれつが走り、周囲の街灯は折れ、灰色の空から降る光だけが異様に白く差し込んでいた。

その中心に、白い羽を持つ女が立っていた。

長い白髪。

整った顔。

背中から伸びる一対の翼。

手には光を固めたような刃。

人が思い描く天使というものが、そのまま形を持ったような姿だった。

その天使の目の前には、小さな蛇がいた。

黒とも銀ともつかない鱗。

身体の一部が裂け、血のようなものが滲んでいる。

蛇は地面を這はおうとしていたが、力が入らないのか、ほとんど動けていなかった。

小さな頭が持ち上がった。

その目を見た瞬間、餌皿の横からこちらを見ていたレオパの姿が脳裏をよぎった。

助けを求めていたのは、この蛇だったのか。

白い羽の女が、刃を持ち上げる。

「忌いまわしき蛇よ」

その声は、澄んでいた。

「知恵の鍵を返せ。」

天使の刃が蛇へ向けられた。

蒼真は蛇と天使の間に入った。

「待て。」

白い羽の女が、ゆっくりと蒼真を見た。

その目に驚きはなかった。

視線だけが蛇から蒼真へ移った。

「そこをどけ。」

「…。」

蒼真は無言で睨にらみ返した。

「……悪魔に唆そそのかされたか。」

怖くないわけがなかった。

相手は、羽がある人間ではない何かだ。

こちらには武器もない。

逃げ道だってない。

天使は刃を蒼真へ向けた。

「この蛇があんたに何をした?」

「天界より持ち出したものがある」

「何を?」

天使は蒼真を見る。

「あなたには関係ない。」

「それで殺すのか」

「お前は、この蛇が何者か知らない」

蒼真が蛇を見る。

「だから聞いてる」

天使は、まるで当然のことを告げるように言った。

「これは天界の法に基づく執行だ。退け。」

蒼真は咄嗟とっさに言葉が出た。

「だから今ここで殺すのか。」

「何も知らぬ者が、裁きに口を挟むな。」

刃の光が強くなる。

次の瞬間、天使が動いた。

速い。

そう認識したときには、もう刃は蒼真の目前にあった。

避けられない。

蒼真の身体が強張こわばる。

喉のどの奥が詰まる。

死ぬ、と思った。

その瞬間。

蒼真の胸の奥で、何かが弾けた。

自分でも分からなかった。

胸の奥で何かが弾けた。

理由を考える暇はなかった。

風が吹いた。

灰色の世界に、見えない波紋が広がる。

蒼真の身体から、一瞬だけ黒とも蒼あおともつかない光が漏れた。

それは炎ではなく、電気でもなく、ただ空間そのものを震わせるような力だった。

天使の刃が、蒼真の額の寸前で止まる。

天使の目が、初めて揺れた。

蒼真は荒い息を吐いた。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

「俺は退しりぞかない」

天使の表情が歪んだ。

「執行を妨害するなら、あなたも処分対象です。」

天使は再び刃を振り上げる。

先ほどよりも強い光が集まり、空気が焼けるような音を立てた。

今度こそ、殺される。

蒼真はそう思った。

だが、次の瞬間。

緑の光が、視界を裂いた。

甲高かんだかい金属音が響く。

蒼真の前に、一人の女性が立っていた。

長い髪が風に揺れている。

その瞳は、深い緑色だった。

手には、光を帯おびた剣。

蒼真と蛇を守るように、彼女は天使の刃を受け止めていた。

その背中を見た瞬間、蒼真は息をするのを忘れた。

天使の刃を受け止める彼女から、目を離せなかった。

天使が歯を食いしばる。

「おのれ」

その声には、先ほどまでの冷たさとは違う感情が混じっていた。

「邪悪な神の使いか」

女性は答えなかった。

ただ、剣を握る手に力を込める。

天使が再び攻撃を仕掛けようとした瞬間、女性の剣から眩まばゆい光が放たれた。

世界が白く染まる。

蒼真は思わず目を閉じた。

音が消える。

風も、匂いも、天使の声も、蛇の気配も、すべてが遠ざかっていく。

七. 夢の痕跡

次に目を開けたとき、蒼真はベッドの上にいた。

「……ッ!」

勢いよく上体を起こす。

部屋だった。

いつもの部屋。

散らかった本。

机の上の資料。

点いたままのパソコン。

カーテンの隙間から入る、朝とも夜ともつかない薄い光。

蒼真は荒い息を吐いた。

全身が汗で濡れている。

シャツが肌に張り付き、額ひたいから顎あごへ汗が流れていた。

夢。

そう思うしかなかった。

蒼真は顔を拭ぬぐった。

そのとき、部屋の隅で何かが動いた。

蒼真は息を止める。

物陰に、小さな影があった。

細く、長く、地面を這うような影。

蛇のシルエットが、蒼真を見つめていた。

「……」

瞬きした瞬間、その影は消えていた。

八. 蛇の導き

翌朝。

スマホの画面には、不在着信がいくつも来ていた。

蒼真は画面を伏せた。

それでも家から出て、蒼真は会社へ向かっていた。

昨夜のことは夢だ。

そう自分に言い聞かせていた。

だが、頭の中からは離れない。

あの灰色の空。

キューブ。

人々の胸に張り付いた化け物。

そして、緑の瞳の女。

気づけば、通勤路の途中にある公園の前で足が止まっていた。

ベンチの上に、何かがいた。

小さな蛇。

昨夜、天使に殺されかけていた蛇が、そこにいた。

蒼真は喉を鳴らした。

「あんたは……昨日の」

蛇は首をもたげた。

その時、蛇はベンチから滑り落ち、滑るように進み始め、振り返り、こちらを見て、再び進み始めた。

同時に、会社のスマホがまた鳴った。

蒼真はスマホを開くも、数秒止まる。

そして、スマホの電源を切った。

蒼真は蛇を追いかけた。

小さな身体で、素早く街を抜けていく。

歩道を曲がり、車道の隙間すきまを抜け、フェンスの下をくぐり、路地へ入る。

蒼真は息を切らしながら追う。

やがて蛇は、人気のない細い路地の奥で止まった。

目の前には、ただの壁がある。

古びたコンクリートの壁。

落書きもなく、扉もない。

行き止まりだった。

蒼真は肩で息をしながら、蛇を見る。

すると、蛇は壁の中へ入っていった。

まるで水面をくぐるように。

蒼真は言葉を失った。

壁に手を伸ばす。

指先が、硬いはずのコンクリートに沈んだ。

だが、昨日の夢を見たあとでは、もう何が嘘なのか分からなかった。

蒼真は覚悟を決め、壁の中へ足を踏み入れた。

冷たい感触が全身を通り抜ける。

次の瞬間、空気が変わった。

そこは、路地裏ではなかった。

草木が生い茂る細い道だった。

街の中にあるはずがないほど深い緑。

湿った土の匂い。

葉の隙間から差し込む淡い光。

蛇はその道を進んでいく。

蒼真は黙って後を追った。

やがて、緑の向こうに小さな建物が見えた。

古びたショップのようだった。

木製の扉。

曇った硝子窓がらすまど。

軒先には見慣れない装飾が吊るされている。

看板には、三つの文字が刻まれていた。

STN。

蒼真は立ち止まった。

蛇は扉の前で振り返り、まるで入れと言うように、するりと中へ消えた。

蒼真は深く息を吸った。

そして、扉を開けた。

カラン、と小さなベルが鳴る。

店内は静かだった。

古い本の匂い。

木と香の匂い。

棚には見たことのない品々が並び、奥には淡い光が揺れている。

その奥に、彼女がいた。

緑の瞳の女性。

蒼真は思わず呟いた。

「あ……夢の中の……」

女性は静かにこちらを見た。

その眼差しには、驚きはなかった。

そして、彼女は言った。

「ようこそ、十三鬼蒼真くん。」

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