小説録1章3話「人類背反者償役機関《アポスタシア・ワークス》」【無料】

一. 竜胆との遭遇
蒼真が頬を押さえながら起き上がる。 アルシアの脇腹には血痕が残る。 オティスも男を警戒して、アルシアのそばから離れない。
男は、蒼真を見下ろしていた。
まるで、そこに倒れている人間の価値を測るような目だった。 敵意というほど鋭くはない。 だが、親切や同情ともまるで違う。
獲物を見つけた猛獣のようであり、同時に、使える道具かどうかを見極める職人のようでもあった。
「お前、新入りか?」
低く、よく通る声だった。
蒼真は、息を整えながら男を見上げた。
背が高い。 鍛えられた身体つき。 荒々しい気配。
そして、その手には異様な剣が握られていた。
巨大な剣だった。
ただの大剣ではない。 柄から刃にかけて、蛇がとぐろを巻いているような形をしている。 まるで、剣そのものが生き物であるかのようだった。
刃には無数の傷が刻まれていた。
新しい傷もあれば、古く黒ずんだ傷もある。
それは飾りではない。 過去に何度も振るわれ、何度も敵を砕き、何度も死線を越えてきた武器だけが持つ重みだった。
蒼真は、その剣から目を離せなかった。
「あなたは?」
蒼真が問いかけると、男は鼻で笑った。
「人に聞くときは、まず自分から名乗るものだぜ」
その言い方に、蒼真は一瞬だけ眉をひそめた。
だが、言われてみれば、その通りでもある。
「俺は、十三鬼蒼真」
男は、蒼真の名前を聞いても特に驚かなかった。
ただ、値踏みするように目を細める。
「俺の名前は、竜胆颯牙だ」
竜胆颯牙。
その名は、妙に男の雰囲気に合っていた。 荒々しく、鋭く、そしてどこか風を切るような響きがある。
蒼真の隣で、アルシアが静かに一歩前へ出た。
「私の名前はアルシア」
凛とした声だった。
先ほどまで戦っていたとは思えないほど、その姿勢には乱れがない。
続けて、オティスが胸を張った。
「われはオティスじゃ。神だ」
竜胆は、そこで初めてオティスに目を向けた。
「なんだ、この妙なガキは」
「誰が妙なガキじゃ! われはオティスじゃ! 人類の神じゃ!」
オティスは顔を真っ赤にして怒鳴った。
だが、竜胆はまるで聞いていない。 小さな抗議など風の音ほどにも感じていない様子で、その視線をすぐにアルシアへ戻した。
竜胆は、アルシアの目を見た。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐに見つめていた。
その沈黙の中で、蒼真は奇妙な緊張を覚えた。
やがて、竜胆は口の端をわずかに上げた。
「ほぅ……。いい目をしたお嬢さんだ。さっきの最後の戦い、実に見事だ」
アルシアは深く頭を下げた。
「お褒めに預かり恐縮だ。こちらこそ、助けてくださったこと、感謝する。」
「よせよせ。」
竜胆は面倒くさそうに手を振った。
「別に助けるつもりなんかなかったよ。ただ、卑怯な輩を見ると、反吐が出る。それだけだ。」
その言葉に、蒼真は少しだけ引っかかりを覚えた。
少なくとも、先ほどの敵とは違う。 そう思わせる何かが、この男にはあった。
「あの……俺には、何が何だか」
蒼真が言うと、竜胆は肩をすくめた。
「お前、この世界にはまだウブのようだな」
ウブ。
その言葉に、蒼真は少しだけ腹が立った。
だが、反論はできなかった。
実際、何も分かっていない。 蛇。 天使。 アルシア。 オティス。 竜胆颯牙。
昨日までの自分なら、全部、漫画やゲームの中の話だと笑っていただろう。
アルシアが静かに口を開いた。
「蒼真と出会ったのは、昨日のこと。彼は何も知らないまま、蛇の前に立った。」
竜胆は、その言葉を聞いて、初めて蒼真をまともに見た。
鋭い視線だった。
ただ見られているだけなのに、胸の奥を探られているような感覚があった。
「なるほどな」
竜胆は短く呟いた。
そして、何の前置きもなく告げた。
「保安局に素手で殴りかかるわ、蛇を庇うわ。お前、まともに組織で生きられるタイプじゃねえな。まさに、社会不適合者だ。」
二. 職への誘い
社会不適合者と言われた時に、過去に吐き捨てられた声がふと蘇った。
「黙って数字を作れ」
「それは理想だ。」
「君は全体の秩序を乱している。」
別の会社の作業服を脱いだ記憶。
退職届を出し、身分証明書を返却した記憶。
いくつかの記憶が蘇った。
蒼真は、ゆっくりと竜胆を見た。
「だったらなんだ」
声には、自分でも分かるほど棘があった。
竜胆はそれを見て、にやりと笑った。
「なにムキになっているんだ? これは俺からの褒め言葉だぜ」
「褒め言葉?」
蒼真は眉をひそめた。
社会不適合者。
その言葉のどこに、褒める要素があるというのか。
「まぁ、いずれ分かるだろう」
竜胆は、蛇の剣を軽く肩に担いだ。
「どのみち、蛇の道に来た者は普通の生活は送れまい。なぜなら、稼ぐ手段がなくなるからだ」
「稼ぐ手段?」
「ああ」
竜胆の目が、蒼真の奥を見透かすように細くなった。
「蛇の道に来る奴には多いんだよ。人から奪うのは嫌だ。だからって自分が食われるのも嫌だって奴が」
蒼真は、唇を噛んだ。
「……そうだ」
言葉が、自然とこぼれた。
「この社会は生きづらい。」
言いながら、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形を持っていくのを感じた。
それは怒りだった。
諦めでもあった。
そして、長い間、自分だけがおかしいのだと思い込まされてきたことへの、苦い違和感でもあった。
竜胆は、満足そうに笑った。
「そんなお前に職をやる」
「職?」
蒼真は思わず聞き返した。
職。
こんな場所で、その言葉を聞くとは思わなかった。
「表では扱いづらい。こっちでは使い道がある」
竜胆は当然のように言った。
「どうする? チャンスを掴むか? 掴まないか?」
蒼真はすぐには答えなかった。
確かに、竜胆の言葉は自分の内側を突いていた。
この男は、蒼真が何に苦しんできたのかを、なぜか分かっている。
だが、だからといって信用できるわけではない。
いい話には裏がある。
それは蒼真が、これまでの職場と社会の中で嫌というほど学んできたことだった。
「いい話には裏がある。」
蒼真は、竜胆から目を逸らさずに言った。
「それに、俺はあなたのことをまだ信じているわけではない」
握った拳がまだ震えている。
頬が殴られた痛みを返す。
それでも竜胆を見る。
竜胆は一瞬きょとんとした顔をした。
そして、次の瞬間、声を上げて笑った。
「まあ、そうだわな。俺もお前を信じているわけではない」
あっさりとした返答だった。
その率直さに、蒼真はかえって言葉を失った。
「だから、お前の本気が見たい。」
竜胆は剣を担ぎ直し、身体を少し前に傾けた。
「俺についてきな」
そう言った瞬間、竜胆は地面を蹴った。
空気が弾けた。
「なっ――」
蒼真が声を上げるより早く、竜胆の姿はすでに遠ざかっていた。
ただ走っているだけではない。 普通の人間の速度ではなかった。 地面を踏むたびに、風が割れ、影だけが残る。
蛇の剣を背負った男は、振り返りもせず、ものすごい速度で駆けていった。
三. 追跡試験
蒼真は、遠ざかっていく竜胆の背中を見た。
「……このまま何も知らなかったことには、できない。」
そう呟き、蒼真は竜胆の後を走って追いかけていく。
足が前へ出る。
身体が風を切る。
竜胆は、すでにかなり先を走っていた。
その背中は遠い。 だが、見失うほどではない。 蒼真は歯を食いしばり、ただ前へ進んだ。
後ろにいたはずのアルシアとオティスは、見えない位置まで来ていた。
ただ、蒼真は無心に走っていく。
しかし、普通の走りでは限界があった。
竜胆は、ただ速いのではない。
まるで地面に縛られていないかのようだった。 一歩ごとに身体が滑るように前へ進み、障害物を障害物とも思わず駆け抜けていく。
蒼真は必死に追った。
足が重い。 呼吸が乱れる。 視界が揺れる。
それでも止まらなかった。
竜胆が、わずかに後ろを振り返った。
蒼真がまだ追ってきていることを確認したのだろう。
その口元が、かすかに笑ったように見えた。
次の瞬間、竜胆は走りながら目を閉じた。
その瞬間、竜胆の周囲に、見えない力が集まっていく。
風が渦を巻き、地面の砂が浮き上がる。 蛇の剣が低く唸るように震えた。
そして、竜胆の背中から、漆黒の羽が広がった。
「羽!?」
蒼真は思わず足を止めそうになった。
竜胆の身体が地面を離れる。
羽が大きく打たれ、風が爆ぜた。
男はそのまま、空へ飛び上がった。
「そんなのありか」
蒼真は呆然と見上げた。
竜胆は空を駆けていた。
地上を走っていた時よりも、さらに速い。 黒い羽を広げ、山の方角へ一直線に飛んでいく。
距離が開いていく。
どんどん、遠くなる。
追いつけない。
普通に考えれば、そうだった。
人間が空を飛ぶ者に追いつけるはずがない。
だが、蒼真は足を止めなかった。
胸の奥で、何かが燃えていた。
恐怖よりも、疑念よりも、諦めの悪さが勝っている。
とはいえ、足腰は限界になりつつあった。
その時、無心に走っているときに、頭の中にアルシアの声が響いた。
「蒼真、彼の場所まで辿り着いていることを強く確信を持って」
しかし、周囲にアルシアはいない。
蒼真は、奥歯を噛み締めた。
――俺は、あいつに追いついている。
胸の奥で、その言葉を何度も繰り返した。
蒼真は竜胆が登っていった山をひたすら駆け上がっていく。
凸凹とした道。 急な傾斜。 危険な断崖絶壁。
けれども、蒼真はただ上だけを目指して走り続けた。
「絶対に追いつく」
四. 秘密基地
竜胆が山頂に降り立った。
その少し後、アルシアとオティスが現れた。
「流石、魔術を極めた者は速いな。さて、お前たちが選んだあの男はここまで来れるか。」
アルシアは半目を閉じて、再び目を見開いた。
「彼はきっと来ます。」
竜胆が山頂へ着いてから、一時間ほどが過ぎた。
そのとき、蒼真が竜胆の前にまでやってきた。
蒼真は前のめりになりながら、なんとか倒れずに踏みとどまった。
残されたのは、荒い呼吸だけだった。
「はっ……はっ……」
蒼真は肩で息をした。
喉が焼けるように熱い。 肺が空気を求めて悲鳴を上げている。 地上を全力で走り、身体が現実にあるわけではないと分かっていても、疲労は確かに存在していた。
膝に手をつき、蒼真はなんとか顔を上げた。
「こりゃ、すごいな」
竜胆は、低く笑った。
蒼真は息を整えようとするも、なぜか自分より後にいたはずのアルシアとオティスがいたことに少し目を丸くした。
「蒼真、よくやったね。」
「なんで、ここに……。」
「わしらを誰じゃと思っている?」
オティスが自慢げに語りかけた。
「まさか、ここまでとは……」
蒼真は息を整えながら、竜胆を睨むように見た。
「じゃあ……あの職っていうのを、紹介してもらえるんですか?」
まだ呼吸は乱れていた。
だが、声だけは弱くしたくなかった。
ここまで来た。
置いていかれなかった。
なら、約束は果たしてもらう。
竜胆は、愉快そうに口の端を上げた。
「ああ、当然だ」
そして、蒼真の目を真正面から見た。
「その意地でも逃さない精神、嫌いじゃないぜ」
その言葉に、蒼真はわずかに息を止めた。
認められた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
竜胆は、蒼真を見て小さく笑った。
竜胆は、山頂のさらに奥へと歩き出した。
「こっちだ」
蒼真たちは、その後に続いた。
山の頂には、大きな木が一本立っていた。
太い幹。 地面を掴むように広がる根。 長い年月を生きてきたことが、一目で分かる大木だった。
竜胆は、その根元で足を止めた。
そこには、穴があった。
ただの獣道ではない。
大木の根と根の間にぽっかりと開いた、地下へ続く黒い入口。 近づくと、奥からひんやりとした空気が流れてきた。
「こんなところに……」
蒼真は思わず呟いた。
竜胆は何も説明せず、その穴へ入っていった。
蒼真は一瞬だけ躊躇した。
だが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
蒼真はアルシアとオティスを見た。
アルシアは無言で頷く。 オティスは少し不満そうにしながらも、ついてくる気はあるらしい。
三人は、竜胆の後を追って穴の中へ入った。
内部は細い通路になっていた。
壁は土と根が絡み合ってできている。 まるで、大木の内部に飲み込まれたような感覚だった。
足元には、かすかに光る石が埋め込まれている。
その淡い光が、地下へ続く道を照らしていた。
蒼真は歩きながら、周囲を見回した。
「ここ、現実の場所なのか?」
問いかけに答えたのは、アルシアだった。
「半分は。けれど、普通の人間の肉眼では辿り着けません」
「半分……?」
蒼真には、分かったようで分からなかった。
確かに足元の感触はある。
土の匂いも、冷たい空気も感じる。
だが、ここが完全に現実だと言われると、どこか違和感がある。
「なんでこんな場所に……」
だが、その前に通路の先が開けた。
視界が広がる。
蒼真は、息を呑んだ。
そこには、地下とは思えないほど大きな空間が広がっていた。
大木の根が天井を覆い、いくつもの太い根が柱のように地面へ伸びている。 その間に、石造りの通路や扉が組み込まれていた。
まるで、大木そのものの下に秘密基地が作られているようだった。
いや、作られているのではない。
大木と秘密基地が、ひとつの生き物のように融合している。
蒼真は、周囲を見渡した。
正面には、重々しい扉がある。
そこには、古びた文字でこう書かれていた。
――牢獄への道。
その隣には、別の扉があった。
さらに奥にも、いくつもの通路が伸びている。
どこへ続いているのかは分からない。 だが、そのすべてが、普通の人間が踏み込んではならない場所のように見えた。
蒼真は、ただ立ち尽くした。
大木の下に、秘密基地が存在している。
昨日までの自分なら、そんな話を信じるはずがなかった。
だが今、蒼真はその中心に立っている。
竜胆が振り返った。
「ようこそ」
その声は、どこか楽しげだった。
「こいつが、お前に紹介する職場だ」
五. 真荒と組織思想
竜胆は、蒼真たちをさらに奥へと案内した。
地下に広がるその施設は、外から見た大木の印象とはまるで違っていた。
根と石が絡み合う通路。 古びた扉。 壁に刻まれた見慣れない記号。
どれも現実の建築物とは違う。 けれど、確かに誰かが使っている場所だった。
蒼真は歩きながら、何度も周囲を見回した。
牢獄。
魔術特訓室。
そして、いくつもの閉ざされた部屋。
ここが職場だと言われても、まだ実感が追いつかなかった。
やがて竜胆は、一枚の重い扉の前で足を止めた。
扉には、蛇のような曲線と山羊の角を思わせる紋様が刻まれていた。
「入れ」
竜胆は短く言い、扉を押し開けた。
中は会議室のような部屋だった。
ただし、普通の会議室ではない。
中央には大きな会議卓が置かれている。
その周囲には、古びた椅子が並んでいた。 壁際には棚があり、そこにはルーンストーンや見慣れない金属器具が整然と置かれている。
さらに奥には、バフォメットが描かれたローブが掛けられていた。
山羊の頭。 人の身体。 背には翼。
その図像は、蒼真がこれまで漠然と抱いていた「悪魔」のイメージそのものだった。
だが、不思議と、この部屋にあるものは禍々しいだけではなかった。
むしろ、長い時間をかけて受け継がれてきた儀式道具のような、静かな重みがあった。
蒼真は喉を鳴らした。
昨日まで、職場に向かおうとしていたのに。
それが今、こんな場所に立っている。
竜胆は会議卓の端に腰を下ろした。
だが、奥に置かれた大きな椅子だけには座らなかった。
その椅子は、他の椅子とは明らかに違っていた。
背もたれが高く、古い木で作られている。 肘掛けには蛇と炎の彫刻が刻まれていた。 部屋の奥に置かれているだけなのに、そこだけ空気が重い。
蒼真にも分かった。
そこは、この場所の主の席だ。
竜胆は軽く息をつき、蒼真を見た。
「それじゃあ、約束だ。貴様に仕事をくれてやろう」
その瞬間、部屋の扉が開いた。
蒼真は反射的に振り返った。
入ってきたのは、年老いた男だった。
だが、ただの老人ではない。
その姿を見た瞬間、蒼真の背筋が伸びた。
年齢はかなり上に見える。
しかし、弱々しさは一切ない。
背筋はまっすぐ伸び、歩き方にも迷いがない。 重厚な目つきは、人を威圧するように鋭く、ただ視線を向けられるだけで身体の奥を押さえつけられるようだった。
男が部屋に入っただけで、空気が変わった。
竜胆の荒々しさとは違う。
アルシアの静かな気品とも違う。
その男は、長い年月をかけて積み重ねた信念と覚悟を、そのまま纏っているようだった。
男は蒼真を見た。
「新人か?」
低い声だった。
大きな声ではない。
それなのに、部屋の隅々まで響いた。
竜胆はすぐに姿勢を正した。
「はい、師範」
師範。
その呼び方に、蒼真は思わず竜胆を見た。
あの竜胆が、自然に敬意を払っている。
それだけで、この男がただ者ではないことは分かった。
蒼真は、男へ向き直った。
「あなたは……」
竜胆が答えた。
「あの方は真荒天厳代表。俺の師範であり、人類背反者償役機関アポスタシア・ワークスの代表だ」
アポスタシア・ワークス。
初めて聞く言葉だった。
しかし、竜胆の口ぶりからして、ただの集まりではない。
代表。
つまり、この異様な組織の社長のようなものか。
蒼真はそう考えたが、目の前の男に「社長」という言葉はあまりにも似合わなかった。
もっと古い。 もっと重い。
組織の長というより、ひとつの思想を背負った長老のようだった。
真荒天厳は、蒼真の前まで歩いてきた。
そして、じっと蒼真を見た。
視線が重い。
値踏みされているわけではない。
むしろ、もっと深い場所を見られている気がした。
蒼真の中にある怒り。 迷い。 恐怖。
そして、昨日から自分を導いている蛇の気配。
そのすべてを、見透かされているようだった。
やがて真荒は、短く呟いた。
「蛇のお墨付きか」
その言葉の意味は分からなかった。
だが、真荒の中では何かが決まったようだった。
竜胆は黙って席を外した。
真荒は奥の大きな椅子へ向かい、静かに腰を下ろした。
その瞬間、部屋の構図が完成した。
ここが、この男の場所なのだと蒼真は理解した。
真荒は肘掛けに手を置き、蒼真を見据えた。
「お前の仕事は、人類への裏切り者を捕縛することだ。」
いきなり告げられた内容に、蒼真は眉をひそめた。
「人類への裏切り者? 一体、どういうことですか?」
「文字通りだ」
真荒の声は揺れなかった。
「人を騙し、人の人生を食い潰し、それでも笑って生きる者がいる。我々は、そういう者を人類背反者と呼ぶ」
人類背反者。
その言葉は、妙に重かった。
ただの犯罪者でも、悪党でもない。
人類に背く者。
真荒は続けた。
「そうした輩に裁きを下す」
「裁き?」
蒼真は思わず聞き返した。
裁き。
その言葉には、危うい響きがあった。
正義のようにも聞こえる。
だが、復讐にも聞こえる。
真荒は、蒼真の疑念を見抜いたように言った。
「我々は悪党を殺さん。死は逃げ道だ」
その一言に、蒼真は息を呑んだ。
殺さない。
だが、許すわけでもない。
「死は逃げ道だ。生きて償わせる」
真荒の目が、さらに鋭くなった。
「それが人類背反者償役機関《アポスタシア・ワークス》の裁きだ」
人類背反者償役機関。
アポスタシア・ワークス。
その名前が、蒼真の中に刻まれた。
殺すのではなく、償わせる。
奪った人生を、奪われた者のために返済させる。
理屈としては分かる。
だが、蒼真の中には、すぐに飲み込めない何かが残った。
「……それは、復讐ってことですか?」
気づけば、蒼真はそう口にしていた。
竜胆がわずかに目を細める。
アルシアは黙って蒼真を見た。
オティスも、珍しく口を挟まなかった。
真荒は怒らなかった。
ただ、静かに答えた。
「違う。復讐なら殺して終わりだ」
真荒の声は冷たく、しかし確信に満ちていた。
「我々は終わらせん。償わせる。」
蒼真は言葉を失った。
その理屈は、極端だった。
だが、筋は通っていた。
殺して終わりにするのではない。
罪を背負わせたまま、生かす。
そして、自分が奪ったものに向き合わせ続ける。
それは救済ではない。
赦しでもない。
だが、単なる復讐とも違う。
重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、竜胆だった。
「例えば、お前」
竜胆は会議卓の端から、蒼真へ声を投げた。
「人を騙して金を奪い去った人間をどう思う?」
蒼真はすぐに答えた。
「そんなの、許されるわけない。」
「だろうな。」
竜胆は頷いた。
「この組織、アポスタシアは、まさにそういう輩を取り締まる場所だ」
「取り締まる?」
「ああ」
竜胆は、指で会議卓を軽く叩いた。
「まずは捕縛する。身柄を拘束する。ここがお前の仕事だ」
蒼真は黙って聞いた。
「俺たちは捕まえる。後はここの仕事だ」
その言葉は、先ほどの真荒の説明よりも少しだけ俗っぽく、分かりやすかった。
捕まえる。
連れてくる。
報酬を得る。
仕事としては、単純だ。
だが、その裏にあるものは単純ではない。
アルシアが静かに口を開いた。
「今の蒼真に向いているのでは?」
蒼真は思わずアルシアを見た。
「向いているって……」
真荒が口を開く。
「どのみち、真実の側に立つ者が、表の世界の仕事に満足などできまい」
真実の側。
その言葉だけが引っかかった。
表の世界の仕事。
会社。 営業。 接客。 低賃金。 搾取。 評価。 数字。 嘘。
今まで自分が息苦しさを感じてきたものが、一瞬で頭の中に蘇る。
真荒は、蒼真の迷いなど見透かしているかのようだった。
真実の側に立つ者。
それが自分に当てはまるのか、蒼真にはまだ分からなかった。
けれど、少なくとも、嘘を飲み込んで生きることに限界を感じていたのは事実だった。
六. 蒼真の迷いと悠莉
「確かに、表の仕事には不満がある」
蒼真は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「どの仕事も。考えれば考えるほどに……」
言いながら、過去の職場の光景が頭をよぎる。
数字を取るために、客の不安を煽る上司。
安い給料で人を使い潰し、それでも感謝を求める会社。
正しいことを言えば面倒くさい奴だと扱われ、黙って従えば都合のいい人間として消費される日々。
不満がないはずがなかった。
だが、それでも蒼真は、真荒の言葉をそのまま受け入れることができなかった。
「でも……」
蒼真は、そこで一度言葉を切った。
真荒の視線が、静かに蒼真を見据えている。
竜胆は会議卓の端に腰を下ろしたまま、面白そうにこちらを眺めている。
アルシアは何も言わない。
オティスも、珍しく黙っていた。
蒼真は、噛み締めるように続けた。
「……被害が重いことと、あなたたちが裁いていいことは、別じゃないですか」
自分でも、甘いことを言っている自覚はあった。
だが、言わずにはいられなかった。
「環境がそうさせた。お金を稼ぎたい。いい生活をしたい。そう思って、道を間違えた人間もいるはずです」
それは、蒼真自身にも分かる欲望だった。
「その通りだ。だから、自分の目で確かめるのだ。」
真荒が呟く。
金が欲しい。
認められたい。
いい生活がしたい。
人から下に見られたくない。
誰もが持つ感情だ。
蒼真だって、持っていないわけではない。
「もちろん、悪いことに手を貸すのはダメです。でも……」
「お前」
竜胆が、そこで口を挟んだ。
声は低かった。
先ほどまでの軽さはない。
「事情があれば、被害者より加害者を先に救うのか?」
その問いは、刃物のように鋭かった。
蒼真は、すぐには答えられなかった。
人を騙した者。
他人の人生を壊した者。
それでも、その人間にも事情があったのではないか。
だが、事情があれば何をしてもいいのか。
頭の中で、答えがまとまらなかった。
「許すとは言ってません」
蒼真は、ようやくそう言った。
「でも、貧しくて、追い詰められて、間違った道に行く人間もいる。俺は……そういう人間まで、全部同じ悪党として見ていいのか分からない」
言い終えた瞬間、部屋の空気が少し重くなった気がした。
竜胆は、しばらく蒼真を見ていた。
そして、短く息を吐く。
「甘いな」
その一言に、蒼真の胸がわずかに痛んだ。
「そんな気持ちなら、この仕事は務まらないぜ」
蒼真は言い返せなかった。
甘い。
そう言われることは、分かっていた。
だが、だからといって、自分の中にある迷いを簡単に捨てることもできない。
悪人を裁く。
人類背反者アポスタスを捕まえる。
奪った者に、奪われた者のために働かせる。
理屈は分かる。
怒りもある。
許せないという感情もある。
それでも、どこかで踏みとどまる自分がいた。
「まあ、いい」
沈黙を破ったのは、真荒だった。
真荒は蒼真を責めるでもなく、竜胆に同意するでもなく、静かに言った。
「一度やってもらってはどうだろうか?」
その声には、妙な重みがあった。
突き放しているようで、同時に、試しているようでもあった。
「蛇も認め、君も一時は認めただけの人間だ」
真荒の視線が竜胆へ向く。
竜胆は何も言わなかった。
「どうだろう。どのみち、今の君に表の仕事は無理だろう」
蒼真は、その言葉に胸を押された。
表の仕事は無理。
それは、竜胆にも言われたことだった。
腹立たしい。
だが、否定しきれない。
「それに現場を知れば、そんな悠長なことを言っている場合ではないと分かるだろう」
真荒の声は、冷たかった。
だが、その冷たさの奥には、現場を見てきた人間だけが持つ諦念のようなものがあった。
「ちょうど一件、戻ってくる頃だ」
その時だった。
会議室の扉が勢いよく開いた。
「終わったよ、真荒おじさん。手強かったけど、この通り」
入ってきたのは、気の強そうな女性だった。
茶色の髪をポニーテールにまとめ、動きやすそうな服装をしている。
表情は明るいが、目は鋭い。
ただの軽い女ではない。 戦いの場に慣れている者の目だった。
彼女は片手に、小さなキューブを持っていた。
透明にも、黒にも見える奇妙な立方体。
その内部には、何かが閉じ込められているような、濁った光が揺れていた。
女性はそれを真荒へ差し出した。
真荒はキューブを受け取り、わずかに目を細める。
「実力を上げたな。上出来だ」
「でしょ?」
女性は得意げに笑った。
その視線が、ふと竜胆へ向く。
「あら、颯牙。あなたが人を連れてくるなんて珍しい」
そして、蒼真の方を見た。
「そちらは新人さんかな?」
竜胆は、なぜか急に無口になった。
先ほどまで好き勝手に話していた男が、女性に声をかけられた途端、ふいと視線を逸らす。
そして、何も言わずに立ち上がった。
「……」
竜胆はそのまま、部屋を出ていった。
蒼真は思わずその背中を見送った。
あの竜胆が、逃げた。
そう見えた。
女性は呆れたように肩をすくめたが、深追いはしなかった。
真荒は、手元のキューブを見ながら語り出した。
「蒼真」
呼ばれて、蒼真は姿勢を正した。
「この彼女が捕獲した、この中に閉じ込めている男は、過去に貧困だった」
真荒の声が、再び部屋の空気を変えた。
「それゆえに金に執着した。大人になると、営業の達人と言われるくらいに世間では高い評価を得ていた」
営業の達人。
その言葉に、蒼真は嫌なものを感じた。
社会では評価される。
数字を取れる。
契約を取れる。
上司から褒められ、会社から必要とされる。
だが、その評価の裏に何があるのか。
「しかし、彼は高額な利子のローンを組ませるなどして、多くの人を破産に追い込んだ」
真荒は淡々と言った。
「中には自殺者や一家心中した人も生まれた。それにより、多くの人は不幸になった」
蒼真の胸が、重く沈んだ。
貧困だった。
金に執着した。
世間では評価された。
そこまでは、蒼真の言った「環境がそうさせた人間」に近いのかもしれない。
だが、その先にいたのは、壊された人間たちだった。
破産。
自殺。
一家心中。
言葉だけでも、重すぎた。
真荒は、蒼真を見据えた。
「事情があることと、被害が消えることは別だ。」
蒼真は、何も言えなかった。
「それは……」
声が詰まる。
反論はあったはずだった。
悪人にも事情がある。
追い詰められた人間もいる。
だが、その理屈を口に出すには、あまりにも被害者の存在が重かった。
真荒は視線を女性へ移した。
「悠莉、お前にこいつを任せる」
女性は目を丸くした。
「え、私がですか? なんで颯牙じゃないんです?」
「お前はこないだ入った新人が飛んだだろう」
真荒が淡々と言うと、女性は気まずそうに頬を掻いた。
「ちぇえ、仕方ないなあ」
文句を言いながらも、完全に嫌がっているわけではなさそうだった。
彼女は蒼真の前に立つ。
近くで見ると、先ほど感じた鋭さの中に、どこか人懐っこさもあった。
気が強そうで、面倒見も悪くなさそうな、そんな不思議な雰囲気を持っている。
女性は軽く手を上げた。
「私は焔咲悠莉」
そして、にっと笑う。
「この仕事のフォローをするから、よろしくね」
七. 初任務
悠莉は、蒼真たちを会議室の外へ案内した。
先ほどまで真荒がいた部屋から出ると、空気が少しだけ軽くなった気がした。
あの男の視線には、場そのものを支配する重さがある。
蒼真は、知らないうちに肩に力が入っていたことに気づいた。
通路は薄暗かった。
大木の根が壁を這い、淡く光る石が足元を照らしている。
遠くからは、何か金属が擦れるような音が聞こえた。 牢獄への道と書かれていた扉の向こうからだろうか。
悠莉は前を歩きながら、軽く振り返った。
「こっち。任務説明用の部屋があるから」
その口調は、先ほど真荒の前で見せたものよりも少し柔らかかった。
気が強そうな雰囲気はある。 だが、竜胆のように威圧してくるわけではない。 どちらかといえば、面倒を見ることに慣れている人間の歩き方だった。
蒼真は、その背中を見ながら歩いた。
人類背反者。
償役。
奪った者には、奪われた者のために働かせる。
真荒の言葉が、頭の中に残っている。
許せない。
人を騙し、人生を壊し、それでも笑っている者がいるなら、許せるはずがない。
だが、だからといって、自分は簡単に「悪党は悪党だ」と切り捨てられるのか。
その迷いは、まだ胸の奥に残っていた。
通路の奥にある扉を開けた。
中は、小さな作戦室のような部屋だった。
中央には机がひとつ。
壁には地図のようなものが貼られている。
だが、その地図には蒼真の知っている街の形だけではなく、見慣れない線や記号が重ねられていた。
机の上には、小さなキューブが置かれている。
先ほど悠莉が真荒へ渡したものと似ていた。
だが、こちらはまだ何も閉じ込めていないのか、内部は澄んだ闇のように静かだった。
悠莉は机の前に立ち、蒼真へ向き直った。
「じゃあ、早速ですけど、新入りさん」
口調は軽い。
しかし、その目は任務に入る者の目だった。
「あなたに最初の任務を言い渡します」
蒼真は思わず背筋を伸ばした。
「最初の任務は、街で投資詐欺を繰り返す葛西臨を捕まえることです」
「葛西?」
聞き覚えのない名前だった。
だが、投資詐欺という言葉には、すぐに嫌な感覚が湧いた。
金に困っている人間。
将来が不安な人間。
今の生活を変えたい人間。
そういう人間の焦りにつけ込む商売。
蒼真の中で、いくつもの営業現場の記憶が重なった。
「誰が葛西をアポスタスだと決めたんですか?」
「組織ではアポスタスと判定されてる。でも、それを信じるかは自分の目で確かめて。」
悠莉は続けた。
「蒼真さん、これは完全に取引です。結果が勝負のお仕事です」
その言葉に、蒼真は少し表情を変えた。
仕事。
取引。
結果。
表の世界でも聞き飽きた言葉だ。
だが、ここで使われると意味が違って聞こえる。
「雇われの身ではないので、こちらから細かい指示はしません。ご自身で考えて」
「自分で考えろって言われても……」
蒼真は困惑した。
昨日まで普通の人間だった。
魔術も、オカルト次元も、キューブも、何も知らない。
そんな状態で、投資詐欺師を捕まえろと言われても、どうすればいいのか分からなかった。
悠莉は、そんな蒼真の反応を予想していたように、机の上のキューブを手に取った。
「バスターキューブを渡しておきます」
悠莉が差し出したそれは、手のひらに収まるほどの立方体だった。
透明にも見える。
黒にも見える。
光を受けているはずなのに、表面には光沢がない。
むしろ、周囲の光を吸い込んでいるようだった。
蒼真は慎重にそれを受け取った。
冷たい。
だが、ただの物体ではない。
触れた瞬間、指先から胸の奥へ、微かな振動のようなものが伝わってきた。
「これで……捕まえるんですか?」
「そう」
悠莉は頷いた。
「弱った状態の詐欺師にこのキューブを向けて、吸い込むよう視覚化します」
「視覚化……」
「ここではイメージが大事。閉じ込める、逃がさない。そういう感覚をはっきり持って。」
悠莉は、蒼真の手の中にあるキューブを指差した。
「このキューブに閉じ込めて、ここまで持ってきたらミッション完了です」
説明は簡単だった。
だが、簡単だからこそ怖かった。
つまり、自分はこれから人間を捕まえる。
それも、警察としてではない。 会社員としてでもない。
アポスタシア・ワークスという、表には存在しない組織の仕事として。
蒼真は、手の中のキューブを見つめた。
これを使えば、人を閉じ込められる。
その事実が、ずしりと重かった。
その時、オティスがぴくりと顔を上げた。
「そろそろ時間じゃ」
「時間?」
蒼真が問い返す前に、アルシアがすぐに反応した。
「蒼真、瞑想状態が途切れます。元の場所に戻ります」
言われた瞬間、蒼真は足元が少し揺らぐのを感じた。
部屋の輪郭が、かすかに滲む。
壁に貼られた地図も、机も、悠莉の姿も、薄い霧の向こうにあるようにぼやけ始めた。
ここは肉体と魂の間にある層。
最初にアルシアが言っていたことを思い出す。
自分の肉体は現実に置いたまま。
この場所にいるのは、あくまで意識なのだ。
悠莉は少しだけ残念そうに肩をすくめた。
「そっか。仕方ないね」
そして、いつもの軽い調子で笑った。
「とりあえず、伝えるべきことは伝えた。あとは頑張ってね」
その言葉は軽かった。
だが、蒼真には分かっていた。
すべては、これから確かめるしかない。
蒼真は、バスターキューブを握り締めた。
「……やってみます」
声は小さかった。
だが、逃げるための言葉ではなかった。
「自分の目で、確かめたい」
悠莉は、少しだけ目を細めた。
「うん。それでいいと思う」
次の瞬間、蒼真たちの足元から光が溢れた。
白とも金ともつかない光が、床から湧き上がる。
部屋の輪郭が崩れ、悠莉の姿が遠ざかっていく。
アルシアが蒼真のそばに立つ。
オティスが小さく何かを呟く。
蒼真は最後に、悠莉の姿を見た。
彼女は手を振っていた。
まるで、少し遠くへ出かける新人を見送る先輩のように。
そして、蒼真、アルシア、オティスは光に包まれた。
八. これから必要なもの
光が消えた。
蒼真は、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、カウンターだった。
薄暗い照明。 木の壁。 部屋の隅に置かれた鞄。
京都駅へ向かう前にいた、STNのショップ。
何も変わっていない。
だが、蒼真の呼吸だけが荒れていた。
ついさっきまで、自分は大木の下にある秘密基地にいた。
竜胆颯牙と名乗る男を追って山を登り、真荒天厳という老人から仕事を与えられ、焔咲悠莉からバスターキューブを受け取った。
そのすべてが、夢だったと言われてもおかしくない。
けれど、夢ではない。
胸の奥には、まだあの場所の空気が残っていた。
真荒の重い視線も、竜胆の荒々しい笑みも、悠莉の軽い声も、すべてが妙に生々しい。
「いったい、今のは……」
蒼真は呆然と呟いた。
隣には、アルシアが立っていた。
そして、オティスも床の上で足を組むように座っている。
「今回は、オティスが手伝ってくれましたが、基本は一人で瞑想状態になり、オカルト次元へ向かいます」
蒼真は、深く息を吐いた。
「さっきの竜胆さんや悠莉さんって……」
「彼らもまた、瞑想をしてオカルト次元に来ている」
答えたのはオティスだった。
オティスは、どこか得意げに顎を上げる。
「肉体を置き、意識を移す。簡単に言えば、そういうことじゃ。もっとも、誰でもできるわけではないがの」
「……そういうことか」
蒼真は分かったような、分からないような気持ちで頷いた。
ふと、あることを思い出す。
「そういや、キューブは?」
悠莉から受け取ったはずだった。
あの、奇妙な立方体。 バスターキューブ。
蒼真は自分の手を見た。
何もない。
「そこにある」
アルシアが、蒼真の手元を指差した。
蒼真は目を凝らした。
だが、見えない。
手のひらには何も乗っていないようにしか見えなかった。
「見えない……。」
「オカルト修行をして、第三の眼を開く必要があります。」
「第三の眼?」
また聞き慣れない言葉が出てきた。
アルシアは頷く。
蒼真は、自分の手のひらを見つめた。
そこにキューブがある。
だが、今の自分には見えない。
つまり、今の自分には、渡された道具ひとつ見ることができない。
それでも、任務はもう始まっている。
九. 葛西
葛西。
街で投資詐欺を繰り返している男。
蒼真に与えられた、最初の標的。
その頃、街のコーヒーショップでは、一人の男が笑っていた。
整えられた髪。
清潔感のあるスーツ。
腕には高級そうな時計。
口元には、人当たりのいい笑み。
男の名は、葛西臨。
彼の向かいには、若い男が座っていた。
男は不安と期待の混ざった表情で、葛西の話に耳を傾けている。
「これは儲かりますよ」
葛西は、柔らかい声で言った。
「マジで、今の時代にこのビジネスを行わないのは情弱です。私、経営ビジネスコンサルタントをしていましてね」
言葉は軽い。
だが、その軽さには妙な説得力があった。
相手の不安をほどき、期待を膨らませる。
疑問を持たせる前に、夢を見せる。
葛西は、それをよく知っていた。
「そうなんですね。これで、僕も稼げますかね!」
向かいの男――蓑田は、身を乗り出して言った。
その目には、疑いよりも期待が勝っている。
今の生活を変えたい。
自分も稼ぎたい。
誰かに認められたい。
そんな焦りが、表情に滲んでいた。
葛西は、にこやかに頷いた。
「いやーー、君なら大丈夫ですよ」
その言葉は、何度も使い古されたものだった。
だが、蓑田には初めて向けられた特別な言葉のように響いた。
葛西は鞄から契約書を取り出し、机の上に滑らせる。
「さあ、もしされるなら、こちらの契約書にサインして頂ければ」
蓑田は少しだけ迷った。
だが、葛西は何も急かさなかった。
ただ、穏やかな笑顔で待っている。
その余裕が、逆に蓑田の迷いを押し流した。
「こんなに丁寧に説明頂いて、ここでやらないのは男じゃない!」
やがて蓑田はペンを取った。
紙の上に、自分の名前を書いていく。
葛西は、その様子を見ながら、静かに笑っていた。
セッションが終わると、葛西は店を出た。
コーヒーショップの扉が閉まり、外の雑踏が耳に入る。
葛西は駐車場へ向かい、自分の車に乗り込んだ。
運転席に座ると、すぐにスマホを取り出す。
今日の成果を確認するためだった。
「今日は四件も取れたよ。契約内容は説明した。決めたのは本人だ。」
葛西は、ひとりで満足そうに呟いた。
「百五十、百、百、五十。悪くないわな。」
契約が取れた。
数字が増えた。
それだけで十分だった。







