この作品で“救わない”と決めた理由

記録者:暁月 魔鬼真

この作品には、
はっきりと決めていることがある。

私は、この物語で誰かを救わない。

最初から、
そう決めていたわけではない。

むしろ、
かつての私は「救いたい側」だった。

社会をよくしたい。
苦しんでいる人を減らしたい。
間違った構造を正したい。

そう思って、
言葉を尽くし、説明し、
正しさを伝えようとしていた。

だが、
その過程で一つの事実に突き当たった。

「救う」という行為そのものが、
新しい支配になることがある。

救う側は、
無意識のうちに上に立つ。

救われる側は、
無意識のうちに下に置かれる。

そこに善意があっても、
力の非対称は必ず生まれる。

私はそれを、
何度も見てきた。

「あなたのためを思って」
「これは正しいことだから」
「分からないあなたの代わりに」

その言葉の先で、
人は静かに選択権を奪われていく。

救済は、
時に人を楽にする。

だが同時に、
自分で考し、選び、引き受ける力を
弱めることもある。

神格反転が扱っているのは、
まさにその構造だ。

善意が
正義が
使命が

いつの間にか
人を縛る側に回る瞬間。

もし私がこの作品で、

「この考え方を持てば救われる」
「これに気づけば正しく生きられる」

そう提示したら、
それは新しい神話になる。

そして、
新しい神話は、
いずれまた人を削る。

だから私は、
救わないと決めた。

代わりに、
構造だけを照らす。

この作品がするのは、

・誰が悪いかを決めることではない
・正しい生き方を示すことでもない
・救済の物語を与えることでもない

ただ、

「今、何が起きているのか」
「どんな配置が、人を削っているのか」

それを見える形にするだけだ。

気づいたあと、
どうするかは読者に委ねる。

立ち向かう人もいるだろう。
距離を取る人もいるだろう。
何も変えない人もいる。

それでいい。

人は、
自分で選ばなかった道を
本当の意味では歩けない。

他人に救われた物語は、
都合が悪くなれば
簡単に裏切られる。

私は、
読者を信頼する。

自分で考し、
自分で選び、
自分で引き受ける力があると。

この作品は、
誰かを抱き上げない。

だが、
足元を照らす灯りにはなる。

転ばない保証はない。
楽になる約束もしない。

それでも、

「どこに立っているのか」
「何に囲まれているのか」

それが分かるだけで、
世界の見え方は変わる。

救わない。
導かない。
従わせない。

それは冷酷さではない。

対等であろうとする、
私なりの誠実さだ。

神格反転は、
救済の物語ではない。

だが、
自分の人生を
他人の神話に預けないための
視点を渡す作品ではありたい。

それで、
十分だと思っている。

関連記事一覧

error: Content is protected !!